ANS論説 最近の悲劇的な出来事の後で
(ANS – 2016年7月19日 論説)
http://www.infoans.org/en/sections/editorial/item/1397-after-the-dramatic-events-of-recent-days
このところ、フランス、トルコ、南スーダンなどで、私たちは非常に深刻な暴力的出来事を目の当たりにしました。その最初の出来事は、強い宗教的要素を持つもので、私たち信仰者に、重い問いかけをさせます。
神の名によってこれほど多くの罪のない人の命が奪われたことに、何の意味があるのだろうか? 暴力は宗教に付きものなのか? 暴力が助長される空気の中で、私たちはどのような立場を取るべきなのか?
私たちは、愛する人々を失い、今、悲しみに暮れるしかない多くの家族に兄弟として連帯しつつ、これらの問いを投げかけます。
これらの出来事の後で、より深い問いが私たちの心と考えを離れません:何度ゆるさなければならないのか? いつまでゆるし続けられるのか? 暴力の誘惑、同じようにやり返す誘惑があります。
教皇フランシスコは、こう語ります。「平和には顔と心があります:神の子イエス、十字架の上で死に、男性、女性、一人ひとりに、全人類に、まさに平和を与えるために復活された方の顔と心です。イエスは『私たちの平和』(エフェソ2・14)です。人が築き、互いを分断させた憎しみの壁を、イエスは打ち壊したからです。」(教皇フランシスコ、2015年5月11日)
キリスト者として、私たちが呼ばれている道は、破壊のためではなく、いのちと成長のための場や機会を創り出すことです。私たちは、愛の種を蒔くことによって、あらゆる暴力を拒否します。
サレジオ家族には、平和といのちの文化を築くために献身する、数え切れないほどの人々の姿があります。少しだけ例を挙げると:南スーダンのジュバの兄弟たちは、戦争によって家を失った多くの人を受け入れるために、聖堂の扉を開けました。シリアの兄弟たちは、戦争と破壊のただ中で、喜びと教育の場を創り出しています。コロンビアの兄弟たちは、元少年兵たちに平和と互いに尊重し合うことを教育し、若者により良い将来を提供しようとしています。
19世紀後半にかけて、イタリアは戦争と分断により、困難な時にありました。多くの人がピエモンテの教会の危うい状況への不安を、しばしばドン・ボスコに訴えました。ドン・ボスコが示した選択肢は明確で、そのような状況に対処するための有効な規範となっています。ドン・ボスコのアプローチは、「絆を結び、何よりも家族となること」でした。この洞察の実りがオラトリオです。オラトリオは、助けを必要とする人たちに愛された出会いの場、イデオロギーや宗教の分断を超え、すべての人の家庭となるために扉を開け放った場として創設され、そのように認められてきました。オラトリオはすべての人のための対話と共存のモデルであり、同時に、奉仕への招きです。