総長メッセージ2025年10月:神の愚かさ~「暗闇のなか種蒔く」人~
総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2025年10月)
神の愚かさ~「暗闇のなか種蒔く」人~
共観福音書で語られる種を蒔く人のたとえは、キリスト教のメッセージを力強く根本的に表すイメージです。一見すると、神のみことばの様々な受け取られ方についての単純な寓話のように思われるかもしれません。しかし、もっと深く見てみると、ことに教育や司牧のプロセスに当てはめてみると、根本的な真理が明らかになるのです。
その真理は、種を蒔く人のしぐさそのものの内にあります。そのしぐさは、「暗闇のなか種を蒔くこと」と定義できるかもしれません。一見したところ効率の悪い、はかり知れないほど惜しみない行為であり、成果と管理を重視する人間的な論理に挑みかけるものです。
省察の中心は、4つのタイプの土地のことよりも、種を蒔く人の人物像と行動にあります。その人は出かけて行き、雑といえるほど大きな身振りで種を蒔きます。事前に見通しを立てていないかのようです。彼は前もって畑の見取り図を作らず、最も見込みのある区画を選ぶこともしません。注意を払って石ころや茨をよけることもしないのです。彼はどこにでも種を蒔きます。これは、原資を最適化して収穫を最大にすることを目指す現代の農法ではありません。むしろそれは、神の論理、豊かさと無条件の贈与の論理を表しています。
教育、司牧の領域に移し変えてみると、この行動は私たちにとって最大の誘惑のひとつを暴き出します。効率と測定可能な即時の結果を得ようとする誘惑です。教育者、カテキスタ、司祭、親は、しばしば「計算高い農夫シンドローム」を患っています。私たちは、報いが約束されているように見えるところに時間とエネルギーを投じる傾向があります。優秀な生徒、信心深い教区信徒、活発な青年グループに。無意識のうちに私たちは、頑なな心の「道ばた」、つかの間の熱意の「石地」、あるいは複雑で息をつまらせるような人生の「茨」に目を向けず放置する恐れがあるのです。けれども、たとえ話が私たちに語りかけるのは、みことばの種、人を思いやる心、知識、証しの種は、計算も先入観もなしにどこにでも蒔かれるべきだということです。「暗闇のなか種を蒔くこと」は、まず何よりも次のことを意味します:成功の見込みではなく、種そのものの価値への揺るぎない信念に駆り立てられた純粋な惜しみない行為です。それは分け隔てをせず、すべての人に自らを差し出す愛です。投資ではなく、あふれ出す贈り物だからです。
次に「暗闇のなか種を蒔くこと」は、私たちの役割における謙虚さについて、深い真理を明らかにします。「暗闇」は、土の特質に対する種を蒔く人の無関心だけでなく、人間の心という計り知れない神秘をも表します。教育者や司牧者は他者の魂の中を「見る」ことはできません。その人の心を道ばたのように固くしたり、土の薄い層のように表面的にしたりする過去の傷、隠された恐れ、無意識の抵抗を十分には知りません。どのような世のわずらいや新たな情熱が、良い提案を覆い隠してしまうか予見できません。
この「暗闇」の中で行動することは、私たちが成長のプロセスを管理するのではないことを、受け入れることを意味します。私たちの務めは発芽させることではなく、種を蒔くことです。成長は、個人の自由(土)、種に内在する力(みことば、愛)、恵みの働き(種を蒔く人に左右されない太陽と雨)が関わる神秘的なダイナミズムです。これに気づくことは、対立しながらも同じように害をもたらす二つの重荷から、私たちを解放してくれます。自分たちを人の成功の立て役者と捉える傲慢さと、人の失敗に責任を感じる落胆です。暗闇のなか種を蒔く教育者は、自分の仕事が不可欠であるけれども全能ではないことを知っています。彼は提供し、提案し、寄り添いますが、最後には相手の自由の神聖な境界、種と土の真の出会いが生じるところの境界を前に、敬意を表して身を引きます。
結局、「暗闇のなか種を蒔くこと」は、徹底的な希望の行為です。なぜ、種を蒔く人は、その多くが失われることを知っていながら、それほど惜しみなく種を蒔き続けるのでしょうか。なぜなら彼は、自分の行為の効率ではなく、種の尽きることのない生命力に信頼を置いているからです。道ばたや石ころや茨にもかかわらず、その中に、たとえわずかでもよい土壌を見つけるなら、どこでも「30倍、60倍、100倍」の実を結ぶ生命力を種がもっていることを彼は知っています。
これは、教育や司牧の分野で働いている人々を悩ませる不信感や疲労に立ち向かうための、基本的な教訓です。無感動、無関心、あるいは敵意を前にするとき、種を蒔くことをやめ、「やってもしょうがない」と結論づける誘惑があります。それに対してこのたとえ話は、土の状態から種の質へと私たちの焦点を移すように促します。私たちの務めは、取りつかれたように収穫を心配することではなく、確実によい種を蒔くことです。真実な言葉、信頼できる証し、忍耐強い愛、堅固な文化という種を。
種を蒔く人の希望は、あいまいな楽観主義ではなく、真理、美、善が惜しみなく差し出されるなら、それそのものに力があり、私たちには予測も管理もできない仕方で、遅かれ早かれ発芽するだろうという確信です。
結論として、種を蒔く人のたとえは、即時の結果に縛られることから私たちを解放し、報いを求めずに与えること、謙虚さ、希望に基づく活動の霊性を教えてくれます。「暗闇のなか種を蒔くこと」は、盲目的でも、世間知らずな行動でもなく、きわめて現実的で実りをもたらす行為です。なぜなら、それは、限りなく与える神がおられること、そして人間の自由の神秘に、基づいているからです。教育者と司牧者の両方にとって、これは報いを期待せずに愛すること、自分が人を形成していると考えずに教えること、仕事の成果を心配せず忠実に証しすることを意味します。おそらく、この惜しみない種蒔きの最初の最も重要な実りは、畑に育つものではなく、種を蒔く人自身の心の変化でしょう。その人は、惜しみなく希望にあふれる神の「愚かさ」、その同じ「愚かさ」をもって行動し、愛することを学ぶのです。
総長 ファビオ・アッタールド神父
《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》
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