ページのトップへ

サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ2025年9月:ゆるしと無償性の預言者


総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2025年9月)

ゆるしと無償性の預言者

ニュースが日々、衝突、戦争、憎しみの見聞を伝える今の時代、キリスト者である私たちにとって、大きな危険があります。出来事の政治的レベルにとどまる解釈に取り込まれてしまう、あるいは私たちのものの見方や現実のとらえ方によって、議論の一方の側に付くことに終始するという危険です。

 

真福八端に続くイエスの話には、主が私たちに与えてくださる一連の「大小の教訓」があります。つねに「あなたがたも聞いているとおり」で始まるのですが、その中で「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)という古い格言が取り上げられています。

 

福音の論理の枠外にあって、この法は、疑義をさしはさまれることがないだけでなく、私たちに対して悪をなした人々との関係をどのように清算するかを示す掟としても受けとめられます。報復は、権利として、義務でさえあるものとして捉えられています。

 

イエスはこの論理を前にして、全く異なる、完全に反対の提案を示します。私たちが耳にしたこの論理に対して、イエスは言います。「しかし、わたしは言っておく」(マタイ5:39)。キリスト教信者として、私たちはここでかなり注意しなくてはなりません。続けて言われるイエスの言葉は、その言葉そのもののために重要なだけでなく、きわめて簡潔な方法で彼の全メッセージを表しているからこそ重要なのです。イエスは、現実を解釈する他の方法があると私たちに言うために来られたのではありません。イエスは地上の現実、特に私たちの生活に関わりあることについての見解のスペクトラムを広げるために、私たちのもとに来られるのではありません。イエスの言葉は、見解の一つなのではなく、彼ご自身が、報復の法とは異なる生き方を表されるのです。

 

「しかし、わたしは言っておく」という言葉は根本的に重要です。続く言葉は、今や単に表明された言葉にとどまらず、イエスという方ご自身であるからです。イエスはご自分の生きておられるものを私たちに伝えてくださいます。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)とイエスが言うとき、私たちは彼ご自身がまさしくこの言葉どおりに生きたことを知っています。イエスは上手に説教するが、彼のメッセージは害をもたらすなどと、私たちは決して言えません。

 

私たちの時代に戻ると、イエスのこうした言葉は、弱い人の言葉、もはや反発できず、苦しむことしかできない人の考えと捉えられる危険があります。実際、十字架の木にご自身を完全に委ねたイエスを見るとき、そのような印象をもつかもしれません。けれども、彼の十字架上での犠牲は、「しかし、わたしは言っておく」から始まる生き方の実りだということを、私たちはよく知っています。イエスは私たちに言われたすべてのことを、完全にご自身で引き受けて全うなさったのです。そして完全に引き受けたことによって、十字架から勝利に達することができました。イエスの論理は、表面的には「敗者」の姿を示すように見えますが、イエスが私たちに残したメッセージ、彼がそれを生き抜いたことは、この世界が目下切実に必要としている薬だと、私たちはよくわかっています。

 

ゆるしの預言者であることは、悪に対して善で応えることを意味します。悪の力のために私の現実の見方、解釈の仕方が左右されることがないようにすると決意することです。ゆるしは弱い人々の応答ではありません。ゆるしは、自由の最も雄弁なしるしです。悪が後に残す傷を認めながらも、その傷が復讐と憎しみを助長する火薬庫に決してならないようにできる自由です。

悪をもって悪に応じることは、人類の傷を広げ、深めるだけです。平和と調和は、憎しみと復讐の土地には育ちません。

無償性の預言者であるために、私たちは、利益の論理ではなく、慈愛の論理によって貧しい人々や困窮している人々を見つめなければなりません。貧しい人々は、貧しさを選ぶわけではありません。裕福な人々は、寛大、善良であること、同情の気持ちでいっぱいになることを選ぶ機会を与えられています。もしも私たちの政治指導者が、衝突と戦争が増え続ける現状で、この分裂のために犠牲を払う人々 - 即ち、その状況から逃れることのできない貧しい人々と辺境の人々 - に目を向ける良識をもっていれば、世界はどれだけ違ったものになるでしょう。

もしも私たちの出発点が、純粋に水平的なものの見方だけであるなら、絶望に向かわせるかもしれません。私たちに残されるのは、自分たちの不平と批判の中に閉じこめられることだけになります。でも、そうではありません! 私たちは若者の教育者なのです。

私たちの世界の若い人々は、健全なロール・モデル、正義と平和の規範に基づいて現実を解釈できる政治リーダーを求めていることを私たちは知っています。けれども、若者たちが周りを見るとき、彼らが目にするのは生き方の貧しいヴィジョンの空虚さでしかないことも私たちは知っています。

若い人々の教育に携わる私たちには重大な責任があります。リーダーシップがほぼ完全に失われた暗闇について意見するだけでは不十分です。若い人々の記憶を生き生きと燃え立たせる提案がないと述べるだけでは足りません。日常生活の中で闇に打ち勝つ真の人間性の手本を差し出すことによって、この闇に希望のろうそくをともすこと、それは私たち一人ひとりにかかっているのです。

今日の世界でゆるしと無償性の預言者となることは、真に努力に値することです。

 

総長 ファビオ・アッタールド神父

《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》

 

 

■同じメッセージの各国語版はサレジオ会総本部サイト内の以下のリンクからお読みいただけます。どうぞご利用ください。

 

英語

 

イタリア語

 

スペイン語

 

ポルトガル語

 

フランス語