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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

サレジオ会来日100周年開幕・終生誓願式ミサ説教(2025年2月8日・調布教会)


サレジオ会は2026年2月8日、来日100周年を迎えます。

100周年の記念期間(2025年2月8日~2026年2月8日)を開始するにあたり、来日100周年開幕式とフィリポ・ネリ堤崚作神学生の終生誓願式のミサが2月8日(土)、カトリック調布教会で行われました。

サレジオ会日本管区長濵﨑敦神父のミサ説教を掲載いたします。

 

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サレジオ会来日100周年に向けた1年間の準備期間を始めるにあたり、チマッティ神父の手紙を皆さんと分かち合いたいと思います。

チマッティ神父の手紙の特徴は、長上に定期的に日本や管区の状況はもちろんのこと、個人的な霊的な内容を報告していることで、それを読むと、チマッティ神父の霊性の深さを垣間見ることができます。特に当時の総長・福者フィリッポ・リナルディ神父には、子どもが父親に対して打ち明けるように全面的な信頼をもって報告しています。

今から100年前、1925年12月29日にチマッティ神父ら9人の宣教師は日本に向けて出発しました。

イタリアから離れてから最初のリナルディ神父への手紙は、1926年1月2日に書かれています。その手紙の一文を紹介します。ここに、サレジオ会員として誓願を生きるとはどういうことかの要約が記されているからです。

普通と違う環境にあって、私たちはできる限り規則正しく信心業を行い、快活さや仕事を通して、サレジオ的な生き方を保つようにし、世間から与えられる便宜や雑音の中でも、できるだけ心の平安を保ち、修道生活を積極的に営んでいます。
私個人としては、イエス様に自分自身を捧げ、いただいた能力や、毎日与えてくださる善意を捧げるようにします。何でも知っていると思いがちなこの傲慢な私は、今述べたこと以外何もできません。イエス様が、私の奉献を受け入れてくださいますようにお祈りください。私の魂が救われ、神の恵みにより日本人の心が開かれますように。

誓願を生きるとは、どういうことでしょうか。自戒を込めて話したいと思います。

1.何よりも神中心に生きること。あとはすべて後回しであり、二次的なものである。
その意味では、基本的な修道生活は、神を中心に生きられるよう築き上げられてきた教会の優れた遺産であり、知恵の一つです。ですからチマッティ神父は「普通と違う環境にあって、私たちはできる限り規則正しく信心業を行う」というのです。私たちはサレジオ会員として、ドン・ボスコのように「快活さと仕事を通して、修道生活を積極的に過ごす」のです。

2.チマッティ神父は次のように言います。「イエス様に自分自身を捧げ、いただいた能力や、毎日与えてくださる善意を捧げるようにします」。
現代は、自由とか、権利とか、自己主張などが強く求められる時代です。それはそれで大切です。しかし、私たちの修道生活の根本は、自分を捧げることにあり、神と人とに自分を捧げるという生き方が何よりも優先にされなければなりません。自分の好み、趣向、能力、才能は使徒職において恵まれた武器となりますが、それらをも差し置いて何よりも自分自身を捧げることを第一にしなければならないのです。

3.「何でも知っていると思いがちなこの傲慢な私は、今述べたこと以外何もできません」。
謙遜の徳は、チマッティ神父の徳の中でも特に優れたものです。傲慢な修道者、司祭ほど醜いものはありません。「あらゆる罪は傲慢からくる」という言葉は真理を突いています。

4.私たちは自分自身が聖化されないといけない。いろいろな活動、いろいろな人との関わり、特に若者たち、その中でも助けを必要とする若者たちと関わっていくことが、ドン・ボスコのカリスマを具体的に生きることですが、それを通して相手はもちろん、私たち自身も聖化されていかなければなりません。もしそれがないならどこかピントがずれているのです。だからチマッティ神父は「私の魂が救われ、神の恵みにより日本人の心が開かれますように」と言うのです。

 来日100周年を記念することはもちろん大きな祝いであり、イベントです。しかし、何よりも大切にしたいと願っていることは、私たちサレジオ会員をはじめ、サレジオ家族、ここに集っている私たち一人ひとりの霊的刷新、回心です。

今日、一人の兄弟が終生誓願を宣立します。今日、参列してくださっている皆さんと共にチマッティ神父の言葉を噛みしめながら、霊的な準備を大切にする準備の1年を過ごし、来日100周年の記念のよき日を迎えることができるように、このミサの中で心を合わせて祈りましょう。