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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ2月:私たちが考えているより「神への渇き」は甚大なのです。


総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2023年2月)

私たちが考えているより「神への渇き」は甚大なのです。

今日、多くの傾聴、自由で率直な対話、裁かれず責められることのない個人的な出会い、そして沈黙と神の現存のうちに身をおくことが必要です。

 

親愛なる友、ドン・ボスコの「ボレッティーノ・サレジアーノ」の読者である皆さん、

ドン・ボスコに心を合わせ、私はドン・ボスコのカリスマにすでになじんでいる方、あるいは聖ヨハネ・ボスコについて知りたい、この偉大な「若者の父、教師」のスタイルで、イエスのみ名においてなされていることをさらに学びたいと望んでいる方、皆さんにあててこのメッセージを書いています。

たった1時間前、私は名誉教皇ベネディクト16世の葬儀に参列しました。教皇としての務めを始めて1年後、ベネディクト16世は素晴らしい回勅『神は愛』を著しました。そこには、私にとってキリスト教的考えの芳香の本質と思える言葉があります。「人をキリスト信者にするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向づけを与えるからです」(『神は愛』1)。ある人格というのは、紛れもないイエス・キリストです。

ベネディクト16世はさらにこの考えを深め、以下のような言葉も遺してくださいました。

・イエス・キリストは人格となった真理であり、世界をご自分に引き寄せます。

・イエスから発する光は真理の輝きです。他の真理はすべて、この方である真理の断片であり、この方に帰するのです。

・イエスは人間の自由の北極星です。イエスなしには、人間の自由は方向を失います。真理の知識が無いとき、自由の本質はすたれ、自由は孤立し、不毛な意思にすぎないものになってしまいます。

・イエスと共にあるとき自由は再発見されます。自由は私たちの善のためにつくられたと認められ、愛徳の行動やふるまいを通じて表現されます。

・したがってイエスは、人間に真理との親しさを豊かに与え、真理のうちに生きるよう絶えず招いてくださいます。

・真理に対する愛以上に人間の精神を未知の地平へと駆り立てるものはありません。

・真理の満ちあふれであるイエス・キリストは、すべての人の心をご自分に引き寄せ、心を広げて喜びで満たしてくださるのです。

(2006年2月10日、教理省総会議出席者への講話)

 

堅固で含蓄のあるこの数行にキリスト教の教えのすべてがあります。それは、「道徳主義」、いのちを感じさせない冷たく厳格な規律のまとまりとはかけ離れたものです。キリスト教的生き方は何よりもまず、神との真の出会いなのです。

そのために、私は今回のメッセージのタイトルで強調したのです。私の意見、深い確信を言えば、私たちが想像したり、感じたりしている以上に「神への渇き」は甚大なのです。私は社会学研究の統計を変え、架空の現実をつくろうとしているのではありません。大勢の人々 - 大勢の父親、母親、多くの家庭、大人、若者 - の実際の生活と向き合うとき頻繁に見出されるのは、容易ではない生活、日々、心をかけ世話しなければならない生活、愛が求められ必要とされる人間関係、すべてのささやかなしぐさ、小さなことがら、すべての行動において培われなければならない人間関係だということを、私は明言したいのです。そのように向き合うとき、多くの傾聴、自由で率直な対話、裁かれず責められることのない個人的な出会い、そして沈黙と神の現存のうちに身をおくことが大いに必要です。

私は強く確信して言います。まさに私が今いる、ここヴァルドッコで、若者たちのグループが率先して他の若者たちや人々を招き、聖体のイエスの前で沈黙して祈る時間、つまり聖体賛美の時間を開催し、100人もの人々 - 大半は若者です - がその招きに応じるのを見て、私は驚き、喜びで満たされます。またローマの聖心の大聖堂で、毎週木曜日の夜、私たちは集まっていました。若者たち、若い夫婦 - 中には赤ちゃん連れも -、そのほかの夫婦連れがそこにいました。彼らは人生に意味を与える方との出会いが自分たちには必要だと感じていたからです。

わずかな例だけをあげましたが、私は多くの場所で、多くの国々でこういったことを体験しました。だからこそ、私はこの紙面で、まさにドン・ボスコなら、するであろうことに皆さんを招きます。彼は、イエスとの出会いの体験を少年たちに提案することを瞬時もためらいませんでした。今ここにおられる神、クリスマスに私たちが祝ったように、私たちと共におられる神は、あらゆる個人的な出会いの瞬間、この御方のうちに憩うあらゆる瞬間に、呼びかけ、招き、平和を与え続けてくださる神です。イエスは今日も、私たち皆と、他の多くの人々と出会いたいと望んでおられるのに、私たちはこの道を歩むことを恥じたり、恐れたりしてはいないでしょうか。私たちはもしかすると遠慮してしまい、自分たちが今経験し生きていること、無償で与えられていることを、他の人々も生きることができるよう、彼らを招くことを、せずにいるのではないでしょうか。こうしたことは流行(はやり)ではないし、古臭いと言い聞かされているので、多くの否定的なメッセージを信じてしまい、私たちの多くがいのちの主であるあの方との親しい出会いを喜びのうちに体験し続けていることを証しする力を失ってはいないでしょうか。

この世を去った名誉教皇ベネディクトはご自分の人生と信仰がまさしく主と出会うための人生、信仰だったと確信しておられました。ですから、教皇フランシスコは葬儀ミサのお説教の最後に、次のように別れの言葉を告げました。「花婿の忠実な友、ベネディクト、その御方の御声を決定的に、永遠のうちに聞くとき、あなたが完全な喜びで満たされますように」。

友人の皆さん、いのちである御方、豊かにいのちを与えてくださる方との出会いを促し続けましょう。言われているよりも、信じ込まされているよりも、「神への渇き」は多くの人々のうちにあるのですから。

総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父

《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》

 

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