総長メッセージ2月:聖フランシスコ・サレジオの大いなる贈り物
総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2022年2月)
聖フランシスコ・サレジオの大いなる贈り物
「聖フランシスコ・サレジオの愛徳と穏やかさがすべてのことにおいて私を導いてくれますように」。これは、ドン・ボスコが教育に携わる司祭としての人生を始めるにあたっての決意でした。このフランシスコ・サレジオとの結びつきによって、サレジオの教育法はその名をいただいたのです。
ある女性教師が書いています。「毎日私は教室を回ります。コロナウイルスによる感染症が発生する前は、私が教室に入ってゆくと生徒たちは立ち上がって私の周りを取り囲みました。今ではそういうことは起きません。4、5年生は私のところに駆け寄りたいのをこらえています。一方で1年生はじっとしたままで、反応もなく冷たい態度です。あの子たちが将来愛情を表現できるのか、とても気がかりです」。また別の教師は付け加えます。「私たちは男子中学生の間で攻撃性が明らかに高まっていることに対処しなければなりません」。親たちが子どもに言うのを耳にします。「他の人たちから離れなさい」と。
今日の子どもたちはどれだけの孤独感、憂うつ、不安を長い間、背負っているのでしょうか。最良の教育的取り組みは何でしょうか。
「愛されていることを感じる人は、愛するようになるでしょう」とドン・ボスコは言っていました。けれども優しさと慈愛(ボンタ)は、生れもっての徳ではないのです。
ドン・ボスコにとっても、穏やかさは生来の素質ではありませんでした。9歳のときの夢から目覚めた時、神を冒瀆する若者たちを殴ったためにこぶしの痛みを感じていたと彼は言っています。
高校生のころは友人ルイジ・コモッロを力ずくで守っていました。ドン・ボスコ自ら語っています。「忌まわしいことを言う者は、私を相手にしなければなりませんでした。一番背が高く横柄な者たちが私の前に立ちふさがり、その間にルイジの顔に2発の張り手が加えられました。かっとなった私は怒りに身を任せました。棒切れも椅子も手元になかったので、大柄な少年たちの一人の肩をつかむと、彼をこん棒代わりにして他の者たちをなぐり始めました。4人が地面に倒れ、他の者たちは叫び声をあげて一目散に逃げ去りました」。
後で心優しいルイジは、その激しい暴力を見せつけたことでドン・ボスコを叱りました。「もうたくさんだ。君の力にはこわくなるよ。神様は仲間をやっつけるために君に力をお与えになったのではない。お願いだから、ゆるして悪を善で返してくれないか」。その忠告は夢の中の人物が言ったことのこだまのようでした。「こぶしではなく、穏やかな優しさと愛によって彼らの友情を得なくてはならない」。
このようにしてジョヴァンニは、人をゆるすことだけでなく、自分自身を律することがどれだけ大切かも学んだのでした。それを彼は、決して忘れることはありませんでした。柔和さの精神をどこにでもつねに携えてゆくようになりましたが、それが彼にとってどれだけ大変だったかは誰にもわからないでしょう。しかし、イエスの言葉によれば、このおかげで「その人は地を受け継ぐ」のです。
「何にもましてあなた方に穏やかな優しさの精神を勧めます。それこそが心をあたため、魂を勝ち取るものです」聖フランシスコ・サレジオ
聖フランシスコ・サレジオの言葉は神学校でルールとして掲げられていて、ドン・ボスコはそれについて思いめぐらしていました。ドン・ボスコの霊的遺言によると、司祭叙階の際の4番目の決意は「聖フランシスコ・サレジオの愛徳と穏やかさがすべてのことにおいて私を導いてくれますように」でした。
そして生れようとしているオラトリオに名前を選ぶ際には、何のためらいもありませんでした。「聖フランシスコ・サレジオのオラトリオと名付けよう」。さらに後になり、生涯を分ち合うことになる最初の若者たちにこう告げました。「私たちはサレジアンと名乗ろう」。なぜでしょう。「私たちの務めは大いなる穏やかさと柔和を必要とするので、私たちはこの聖人の保護のもとに身を置きました。類まれな柔和さと多くの霊魂を獲得することにおいて、彼に倣うことができる恵みを、聖人のとりなしによって神が与えてくださるように」。
穏やかな優しさ、「完璧な貞潔よりも稀な」この徳は、「愛徳の花」です。そして愛徳の実践について、聖フランシスコ・サレジオは説きました。「何にもまして穏やかな優しさの精神を勧めます。それこそが心をあたため、魂を勝ち取るものです」と若い女子修道院長に書いています。
4年に及び、人間関係においてこの穏やかさの徳を無視し、軽んじた戦争の終りに、パオロ・アルベラ総長は会員にあてて、一つの書簡をささげてこの徳について取り上げました。「穏やかな優しさの徳は、私たちの性格の血気盛んなところを治めさせ、短気な衝動を抑制し、相対している人に一言も傷つけるような言葉を発しないように私たちを律します。この徳は、振る舞い、姿勢、行動におけるあらゆる形の暴力を拒むように求めます」。ドン・アルベラにとって、私たちに残してくれたこの書簡、「穏やかな優しさ」の描写で、この面影を忘れることはあり得ないことでした。「穏やかさに満ちたあのまなざしのしるし、近づく人を誰でも幸せにすることのみを願う、誠実な、穏やかな精神を映す真の澄んだ鏡」。
穏やかな優しさは甘ったるさ、砂糖のまぶされた甘さの同義語ではありません。これらの言葉はうわべだけをゆがんでとらえています。穏やかな優しさは弱さとは全く違います。抑制できない暴力こそが弱さです。優しさは穏やかで忍耐強く謙遜な力です。ドン・ボスコは指導者として、穏やかな優しさと堅固さを一つに合わせていました。
この慈愛(ボンタ)、穏やかな優しさ、柔和の精神は最初のサレジオ会員たちに深く刻み込まれ、私たちの最も古い伝統に属するものとなっています。このすべてが私たちに示しているのは、私たちがそれを失うことはもとより、ないがしろにしてはいけないということです。さもないと、私たちのカリスマにおけるアイデンティティーは著しく損なわれてしまいます。
私たちのもとに来る若者たちの多くにとって、世界のサレジオ家族との出会いで最も思い出に残っている体験は、多くの場合、彼らが感じた家族的な親しさ、受けた歓迎、愛情です。つまり、家族的な精神です。サレジオ会の初期の頃、「サレジオ会第四の誓願」のことが語られていました。それには何よりもまず慈愛(ボンタ)、そして仕事、予防教育法が含まれていました。
世界中のサレジオの拠点、サレジアン・シスターズ、サレジオ会、もしくは現在サレジオ家族を形成する32のグループのもとで、この慈愛(ボンタ)の特性を際立ったものとして持ち合わせないサレジオの拠点があることは想像もできません。あるいは教皇フランシスコが「ヴァルドッコの選択」という教示あふれる表現で私たちに思い起こさせようとなさったように、少なくともそれを持つべきなのです。
優しさ、愛情、家族的雰囲気、共にいることから成るサレジオ的スタイルを私たちが選択すること。私たちには宝、ドン・ボスコから受け取った贈り物があります。今やそれを活気づけることは、私たちにかかっています。
総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父
《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》