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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ1月:サレジオのカリスマの二人の巨人―ひとりはもうひとりを追って


総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2022年1月)

サレジオカリスマの二人の巨人―ひとりはもうひとりを追って

サレジオの霊性は堅固で時の試練にも耐えるものです。というのも、教会の摂理的歴史における二人の類ない人物にしっかりと結びついているからです。サレジオの聖フランシスコと聖ヨハネ・ボスコとに。

私の友人、「ボレッティーノ・サレジアーノ」の読者の皆さん、新年おめでとうございます。2022年が幸せで祝福された年になりますように。

12月28日火曜日、私たちは聖フランシスコ・サレジオの年を開始しました。2022年の同じ日、私たちはこの偉大な聖人の帰天400周年を祝うことになっています。その時代にあって、天才的で稀有な聖人でした。私たち、ドン・ボスコのサレジオ会員が名前をいただいているのは、まさしく今月24日に祝日を記念する、この聖フランシスコ・サレジオなのです。

ある日、ドン・ボスコは自分のもとで育った少年たちのグループに「私たちはサレジアンと名乗ろう」と言いました。こうして、やがては巨大な木に成長し、今日のドン・ボスコのサレジオ家族となる、心を魅了する「聖霊による冒険」が始まったのです。この木は、もうひとりの巨人である私たちの偉大なドン・ボスコの感性によって読み込まれ実践された聖フランシスコ・サレジオの霊性に深く根をおろし、その源泉から汲んでいます。

私がサレジオのカリスマの互いに連なる二人の巨人について語ろうとするのは、このためです。両者とも教会における大いなる賜物だからです。また聖フランシスコ・サレジオの霊的力を貧しい少年たちの日常的な教育と福音宣教に取り込むことにおいて、ドン・ボスコが誰にもましてたけており、したがって全サレジオ家族は、今日も教会と社会の中でこの務めを担い続けているからです。

そのため、初めから述べておきたいのですが、聖フランシスコ・サレジオと聖ヨハネ・ボスコはゆりかごの時から、「象徴的な」多くの共通点を持っています。

 

二人の聖なる母親

フランシスコは、アルプス最高峰の山々に源をもつ小川が横切る谷を見下ろすサヴォイアの空の下で生れました。聖ヨハネ・ボスコもサヴォイアの人だったことを思わずにはいられません。彼は城で生れはしませんでしたが、フランシスコと同じ贈り物、つまり優しく信仰心豊かな母親に恵まれました。フランソワーズ・ド・ボワシーはとても若くして、最初の子どもを身ごもりました。アヌシーで、神の祝福された御子の受難について語りかける聖骸布の前で感動し、ある誓いを立てました。やがて生れるこの子どもは永遠にイエスのものであると。

ある日、マンマ・マルゲリータはヨハネに語りかけるのです。「あなたが生れたとき、マリア様にお捧げしたのよ」と。トリノにおいて、同じ聖骸布の前で、ドン・ボスコも跪くことになります。キリスト者の母たちは聖人を育てます。フランシスコのように城で、あるいはヨハネのように田舎のあばら家で。

聖フランシスコ・サレジオが最初に言うことのできた文章は「よき神とお母さまは、ぼくのことをとても愛している」だったと言われています。

よき神はフランシスコとヨハネを心にかけてくださいました。そして二人に大きな広い心を与えました。フランシスコはパリとパドヴァで、当時最も高名だった大学で学びました。ヨハネは居酒屋の階段下の小部屋でロウソクの光で勉強しました。けれども、聖霊は人間の困難を前にしてもあきらめはしません。二人は「出会う」ことを運命づけられていました。

聖フランシスコ・サレジオは、時とともに重要性と意義を増した歴史上の人物の一人です。彼の洞察、経験、霊的な確信が、豊かに実を結び広まったためです。400年を経ても聖フランシスコ・サレジオによるキリスト教的生活の提案、霊的同伴の方法、神と人間の関係の人文主義的ビジョンは生き生きと現実に即し、私たちを魅了します。ドン・ボスコは誰よりもそれを理解、解釈することができました。

この1年の間、私たちが聖フランシスコ・サレジオの姿に、またこの聖人と共に、サレジオ精神のうちに、ヴァルドッコの神秘家ドン・ボスコに近づくことができるようにと、いろいろな行事が計画されることでしょう。

 

恵みの12ヶ月

新年のお祝いとして、私は聖フランシスコ・サレジオからドン・ボスコへと大河のように流れる深く人間的、霊的なさわやかさ、サレジオの霊性を味わうことを、ドン・ボスコのカリスマの友であるすべての皆さんに薦めます。聖フランシスコの心から生じ、若者とともに生きる生活においてドン・ボスコが自らのものとした次のような「サレジオ的」思索に見出される大きな力を、この川は運んでいます。ここに、その思索のいくつかをあげます:

・「神はご自分の恵みにおいて、私たちの同意なしには行動なさいません。力をもって行われますが、私たちに強制したり、私たちを束縛したりするためではなく、心をひきつけるために、私たちの自由を蹂躙するためではなく、私たちが自由に愛するよう、行動されます。」

・聖フランシスコ・サレジオが好んで言っていたように、「神は私たちをご自分に引き寄せます。優しくご自分から働きかけることによって、時には召命や呼びかけとして、またある時はひらめきや招きとしての友の声を通して。さらにまた、神はつねに前もって行動なさるので、『予防』によっても。神はご自分の思いを押しつけません。私たちの扉をノックして、私たちが開けるまで待っておられます。」

・「神は現存しておられます。一人ひとりに、その人の人生の、神がご自分で選んだ時に、神だけがご存じの仕方で、ご自分をあらわされるのです。」

聖フランシスコ・サレジオもドン・ボスコも、日々の生活を神の愛のあらわれにしようとしました。それは、受け取られ、お返しする愛です。二人の聖人は、神との関係を生活に、生活を神との関係に近づけることを望みました。それは、教皇フランシスコが愛情をこめて次のように語る、「お隣さんの聖性」、「聖性の中流層」のことです。「私は、忍耐強い神の民の中に聖性を見るのが好きです。はかり知れない愛をもって子どもたちを育てる親、家族を養うために働く男性、女性たち、病を抱える人々、微笑み続ける年老いたシスターたちの中に。彼らの日々の忍耐に、私は闘う教会の聖性を見ます。これは、私たちの近くに暮らす人々の『お隣さん』の聖性、神の現存の反映、別の言い方をするなら『聖性の中流層』です」。

・「神が私たちを愛するのは私たちが善人だからではなく、神が善き方だからです。」

神のみ旨を行うのは「自分の至らなさ」を感じるからではなく、神のあわれみと善良さに希望をおくから行うのです。これがサレジオ的楽観主義です。

聖フランシスコ・サレジオは愛をもって神の愛に応えます。

・「主よ、私はあなたを愛します。永遠のいのちにおいてあなたを愛すことができないなら、少なくともこの世において。少なくともここであなたを愛します。神よ、あなたのいつくしみに希望を持ち続けます」。

聖フランシスコ・サレジオの危機は、彼の存在の深みを明らかにします:神への愛に捉えられた心です。神への愛は、気持ちよく感じることではなく、父である神のみ旨を行うことに基づいているという確信は、聖フランシスコ・サレジオの霊性の軸であり、ドン・ボスコの全サレジオ家族にとっての導きであるべきです。

・「神の慰めから慰めの神へ、熱狂から真の愛へと進みましょう。」

・「何一つとして、恐れからではなく、すべてのことを愛によって行いなさい。愛するようにと私たちを動かすのは、私たち自身の功徳ではなく、神のいつくしみだからです。」

聖アウグスティヌスは「私たちの心はあなたのうちに憩うまで、休まることを知らない」*と言いましたが、私たちは聖フランシスコ・サレジオの考えに倣い、フォン・バルタザールと共に言うことができるでしょう。「(神よ)あなたの心は、私たちがあなたのうちに憩うまで休まることがない。時間と永遠が互いに溶け合うその時まで」。

ドン・ボスコは望んでいました。キリストへの愛が、私たちを若者たちへの愛に導くように! これは私たちの生き方のサレジオ的特徴であり、ドン・ボスコの家族にとって、今もこれからも続く挑戦です。

・「愛徳は私たちの祈りのはかりです。神への私たちの愛は、隣人への私たちの愛のうちに表れるからです。」

・「ここに『生活の祈り』があります。私たちの生活全体が絶え間ない祈りとなるほどに、私たちのすべての活動を愛によって、神への愛のために行うことの中に。」

・「活動中心の慌ただしさと騒がしさから遠ざかり、自分の心の中で休み、神と心と心の対話をする時間を見いだすことは私たちにとって大切なことです。」

・「いつどこでも応じるマリアのような心を見つけた時、神が愛によって何をなされようと望まれるかを、私たちはマリアのうちに見ます。ご自分を空しくすることで、マリアは神の豊かさを受け取りました。神にいつでも応える準備ができていたので、神はマリアにおいて偉大なことを成し遂げることがおできになるのです。」

*聖アウグスティヌス,『告白』I, 1

 

総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父

《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》