総長メッセージ2月:主よ、私が驚くことをやめず、現実に慣れることがないよう助けてください。
総長メッセージ(”Bollettino Salesiano” 2021年2月)
主よ、私が驚くことをやめず、現実に慣れることがないよう助けてください。
LORD, HELP ME NEVER STOP BEING AMAZED OR BECOME INURED TO REALITY
「主よ、私が驚くことをやめず、現実に慣れることがないよう助けてください」。
これはサレジオ会が置かれている100以上の国々を訪れ、あまりに信じがたく魅力的でかけがえのない、そして時には痛ましい現実を知ってから私が唱えるようになった祈りです。
友人であり、「ボレッティーノ・サレジアーノ」の読者である皆さんに心よりご挨拶申し上げます。私たちは昨年よりもよい年であるようにとの強い願いを込めて2021年をスタートしました。おそらくまだ不安はあるでしょうが、心の底で希望を培わなければならないと感じています。そうすることは、私たちのためになり、よりよい、意味のある生活を送るのを助けてくれるからです。
1月最後の日曜日、私たちはドン・ボスコの日を祝いました。これも例年とは違うものになりました。パンデミックがまだ終結しておらず、私たちの生活に制約を与え続けているからです。この状況にあってもなお、私たちは存在している希望の光と芽を読み取る術を身につけなくてはなりません。
この状況にあって、私は今月、皆さんと分ち合おうとこのふり返りを選びました。上のタイトルは過去7年間を通して私が幾度となくささげた祈り、そして今も続けている祈りを表しています。何回も、ほぼ毎日、私はこのように祈っています。「主よ、私が驚くことをやめず、現実に慣れることがないよう助けてください」。この言葉に込められた意味を説明しましょう。
パンデミックが起きる前の過去6年間、私はサレジオの拠点がある世界中100を超える国を訪れる、貴重で苛酷でもある(この意味はすぐにわかっていただけるでしょう)機会を得ました。サレジオ会や様々なサレジオ家族のグループがそこで奉仕活動をしています。あまりに信じがたい現実、魅力的でかけがえのない、そして時には痛ましい現実を知ることになった私はローマに戻ると、日々、祈り考えました。「主よ、私が驚くことを決してやめませんように」。
♦南スーダン、ジュバの難民キャンプで何百人もの女性たちの尊厳ある姿を目にしたときの驚きの気持ちを失いませんように。彼女たちは夫が亡くなったり、行方不明になったりしていて、自分たちだけで子どもの世話をしています。そのキャンプはジュバのサレジオ会の家の、私たちの土地にあります。サレジオ会の兄弟たちが、所有するものも頼る人もないその多くの人たちを受け入れ、共にいて寄り添う決断をしたことに、賞賛の気持ちを失うことがありませんように。
♦コロンビアのメデジンにある「ドン・ボスコの街」に住む少年少女に会った時に感じた喜び、その驚きを抱き続けることができますように。彼らは数か月前もしくは数年前までコロンビア革命軍の少年・少女兵にされていましたが、サレジオ会の家で、勉強を再開することができました。ゲリラから救出された若者たちは、今では微笑を浮べ、希望を抱いて生活しています。
♦ケニア北部カクマの難民キャンプの中心部に暮らすサレジオ会共同体が行った善に対する驚きを、もち続けることができますように。そこは30万人もの居住者がいることから、一つの都市と見なすこともできる国連の難民キャンプです。特例として、私たちは長年にわたり、そこで生活しています。私が「特例」と言うのは、そうした難民キャンプの規則により、難民ではない部外者は夜になると退去しなくてはならないからです。それでも私たちはドン・ボスコその人の魅力と彼の息子たち・娘たちの教育スタイルのおかげでそこに留まることを許され、多くの難民の家族のただ中に家を構え、職業学校と、キャンプの様々な場所で司牧するための小教区を運営することを認められています。
♦アルゼンチン、ブエノス・アイレスの郊外、この大都会を取り囲む「ビジャス」(スラム街)の善良な人々に感じた親しみ、その驚きをもち続けることができますように。そこでは、今、教皇フランシスコとして知られるあの方が「バラックの司祭たち」(司牧にあたる教区司祭の呼び名)に親しく寄り添っていたこともあります。サレジオ会の兄弟、FMAの姉妹もそこで働いています。
♦「路上から救出され」、私たちの家に迎え入れられた大勢の少年少女の顔に浮ぶ微笑に私が驚くことをやめませんように。彼らはコロンビア、シエラレオネ、アンゴラ、インドの多くの場所のストリートチルドレンです。その各地で、私は子どもたちに起ったたくさんの奇跡を見ることができました。彼らはサレジオの家にやって来て、体を洗い、食べ物を与えられ、望めばそこで泊まることもできます。この仕事はとてもきついものです。サレジオ会員は子どもたちを見つけるために夜中に町の中を歩き、彼らとつながりをつくり、信頼を得るようにします(あまりに多くの大人たちから棄てられたり、虐待されたりしているため、簡単ではありません)。それから子どもたちに、外での生活をやめて、サレジオの家に来るように招くのです。この務めは多くのいのち、本当に多くのいのちを町の通りから救いました。少女に比べると多くの少年たちが野外で寝起きし、飢えや情緒的な痛みを紛らわすための化学薬品、ペンキ、接着剤によって肺を傷つけていました。
♦ダマスカスとアレッポで大勢の若いアニメーター、高校生、大学生のうちに見た希望と尊厳がつねに私に驚きを与えてくれるよう、信仰をこめて祈ります。その若者たちはサレジオ会の兄弟たちと一緒に毎日何百人もの子どもたちを集めて、祖国での戦争の「恐怖が和らぐ」ように助けています。おそらく映画「ライフ・イズ・ビューティフル」で語られていることと似ているかもしれません。ナチスの強制収容所での、父親と息子の物語です。ただアレッポとダマスカスでの現実ははるかに痛ましいものです。映画ではなく、現実の生活だからです。私はそこでも一言も嘆きの声を聞きませんでした。戦争と多くの国々の利害についての明晰な議論は聞きましたが、尊厳と連帯、兄弟愛と信仰がありました。それまで映画のフィクションでしか見たことのなかった、戦争の恐怖、町が70%も破壊されているさなかでの、あれほどまでの尊厳に対する驚きを、私が失うことがないように主に祈ります。実際にその場所にいるのは想像とは大きな違いがあります。
♦数多くの先住民‐ブラジルのヤノマミ、シャバンテ、ボイ・ボロロ、パラグアイのアヨレオとグアラニ、エクアドルのシュアルとアチュアルの人々‐と長い間共にしてきた生活の素晴らしい現実に対する驚きを私がなくさないようにと主に願います。彼らを知ったとき、私は彼らのありのままの生活と彼らと多くの年月を共に過してきた私の兄弟姉妹の姿に感嘆をおぼえずにいられませんでした。
なぜ私が驚きを感じ続けられるようにと主に願うのか、さらに実例をあげていくことができるでしょう。驚きと賛嘆の気持ちでこうした現実を思いめぐらすと、神への感謝、いのちと、他者の善のために多くのことを成した人々への感謝の気持ちに満たされるのです。私は、司牧訪問の際にこれらのことを直接見聞きする機会を与えられた証人にすぎません、まるで公証人のように。ドン・ボスコの宣教の夢は発展し、彼自身が想像し得たことを疑いなくはるかに超えたものとなりました。
同時に私は多くの現実に慣れてしまうことへの恐れを感じます。たとえば、コロナウイルス感染症の死者数について、ただ数字に関心が向くだけになっていること。その死の背景には数多くの痛ましい話、またはしばしば感動的ないのちの物語があるのです。私は移住の現象がもたらす痛み、ヨーロッパにたどり着こうとしながら、地中海で亡くなる人々、さらに北を目指し、中央アメリカの国々の国境や川でいのちを終えることになった移住者の痛みに慣れたくありません。
人々を搾取するマフィアが行っている虐待に、心痛めるのをやめたくありません。彼らはよりよい暮らしを約束し、人々―大半は女性、未成年者―をだまし、抜け出す希望の見えない売春と虐待の道へ引きずり込みます。
私たちの社会では何もできないと考えることに慣れてしまいたくありません。
私たちの大きな「第一世界」‐先進国‐の都市で、食べ物の配布を待つ人々の長い行列を目にすることに慣れてしまいたくありません。その一人ひとりは痛ましい物語を抱えています。
炎症を起している傷に触れられるときの痛みに敏感であるように、これらのすべてのことに対する敏感さを持ち続けたいと思います。
親愛なる読者の皆さん、これが私の単純で慎ましいメッセージです。多くの人々がこのような現実とこのような人々に気づいていることを私は知っています。そして私たちの多くはこうした状況を変えることが可能だと信じ、変化を起こし、状況を良くしようと働きかけています。
皆さんに希望、紛うことなき真の希望に満ちた新年、2021年を願いつつ、夢を見ること、いのちの美しさと感嘆すべき事柄、多くのかけがえのない物語に驚かされることをやめないように呼びかけます。そして、あってはならないことに「慣れてしまわないように」と。
よりよき世界がいつも可能で、はるか彼方の手の届かない「ユートピア」ではないと信じて、友として私たちのそばにいてくださることに感謝しています。
愛をこめて。
総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父
《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》