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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

神の僕イグナチオ・ストゥクリー 生誕150周年


 

 

(ANS – 2019年12月12日 ローマ総本部)
http://www.infoans.org/index.php?option=com_k2&view=item&id=9393:rmg-150th-anniversary-birth-of-servant-of-god-ignatius-stuchly&Itemid=1680&lang=en

 2019年12月14日土曜日は、神の僕 イグナチオ・ストゥクリーが1869年、当時オーストリア・ハンガリー帝国の一部であったボレスワフに生まれてから150年目の記念日となる。

 揺るぎない信仰の持ち主であった両親のもと、幼いイグナチオは深い信仰を養われた。小学生のころ、優れた教師、ヤン・コリバイが司祭職について語るのを聞き、イグナチオはその召命に心ひかれるようになる。22歳のとき、サレジオ会に紹介され、夢が具体化しはじめる。イグナチオをトリノに迎えたのはルア神父であった。イグナチオの熱烈な望みは宣教地へ赴くことだったが、ある日、ルア神父から謎めいた言葉をかけられる:「君の行く宣教地は北だ!」

 イグナチオはまず、オーストリア・ハンガリー帝国の町、ゴリツィアに派遣された。ギムナジウムの寮生たちに教え、同時に神学を勉強した。1901年に、司祭に叙階された。多くの責務を果たしながら、霊的指導者、聴罪司祭としての評判が広まり始める。

 1910年、イグナチオ神父はリュブリャナ(スロベニア)に派遣され、困難の中、多くの青少年を養い、修練院をまかない、巡礼地の建設を完成させた。

 1925年、目上たちはイグナチオ神父をペローサ・アルジェンティナ(トリノ)に派遣した。ボヘミアとモラヴィアからの志願生を主に迎えるセンターの開設のためであった。3年間、大変な貧しい状況を過ごした後(世界恐慌のころ)、その若者たちを故国へ移さなければならなくなったとき、イグナチオ神父は引き続き彼らの責任者として任命された。彼はフリスタク(チェコ共和国)へ向かった。

 幸いな召命の発展により、長上たちがチェコスロバキアを自立的な管区とするまでになった。ストゥクリー神父は最初の管区長となる。1935年のことである。ストゥクリー神父の導きのもと、生まれたての管区は数年のうちに豊かに花開いた。4年後、会員は400名に達した。チェコスロバキア管区がスロバキアとボヘミア-モラヴィアの二つの管区に分けられた際、ストゥクリー神父は引き続き、後者の責任者となった。

 ナチズムと第二次世界大戦という悲惨な時がやってきた。各地の修道院がナチスによって没収され、サレジオ会員は強制労働に送られた。“じいちゃん”(イグナチオ神父はいまや親しみを込めてこう呼ばれていた)は安心し信頼できるよりどころとなっていた。会員たちのうちに信仰と希望を力づけ、最も弱い人びとのために、皆で愛をもって働いた。

 共産主義の支配となり、サレジオ会の事業は没収され、会員は徴兵され、追放されて散り散りになった。ストゥクリー神父は生涯をささげた事業が打ち砕かれるのを突然目の当たりにする。1950年3月、運命の「蛮行の夜」の40日前、ストゥクリー神父は脳卒中に倒れ、生涯最後の3年間を、ズリンの介護施設で、その後、ルコフで、実質囚人として送る。

 長上たちに常に生き生きと抱かせたストゥクリー神父への尊敬の念と、大いに愛し愛される人柄は、聖性の評判のうちにますます広まった。1953年1月17の夜、ストゥクリー神父は平安のうちに息をひきとった。

 現在、列福運動が続けられ、ストゥクリー神父の英雄的徳がまもなく承認される。
4か国語で詳しい情報が紹介されている: https://istuchly.cz/