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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ9月「満ち足りた人生」


 

総長メッセージ(”Bollettino Salesiano” 2018年9月)

満ち足りた人生

 読者の皆さん、これはまさに私たちが最も気にかけていることだと思うのですー私たちが充実した人生を送っていると感じること。人間ならではのあこがれだと思われます。この思いをこめて、私は皆さんにお伝えせずにはいられません。私がこれまでの人生で、満ち足りた人生を送っている多くの人々、またそれを生きた人々を知るようになったことを。私自身そのような道をたどりたいと願っています。

 

 二つの実際の出来事からお話ししましょう。当事者の年齢から意義深く、注目に値すると思われます。

 トリノのヴァルドッコでの扶助者聖マリアの素晴らしい祭日のあとで、今年の5月、私はクロアチアの各支部を訪問する旅を始めました。クロアチアのキリスト教共同体と若い人々の堅固な信仰に私は心を強く打たれました。私が出会った数百人もの青年たちは──彼らは時代の先端を行く現代的な若者で世界中のすべての若者たちと同様にデジタルの世界を自分のものにしていますが──キリスト者としての揺るぎない信仰を生きているのです。このことに私は強い感銘を受けたので、今回の文章の本題に入る前に是非とも皆さんにお話ししたいと思った次第です。

 私たちがとあるサレジオ会の施設に到着したのは夜の10時でした。修道院の中庭に入ると、私たちは典型的なクロアチアの民族舞踊の曲を耳にし、小さい子どもたち、10代の少年少女、青年、親たち、そしてもちろんサレジオ会の共同体からなる150人ほどが私たちをそこで待っていました。彼らの中にひとりのサレジオ会の会員を見たときの私の驚きと感動は大いなるものでした(本人の迷惑にならないよう、名前は伏せておきます)。その会員は92歳で、ドン・ボスコの時代のもののような古びたスータンを着ていました。私たちを待っている間、彼は平和に満ちた微笑を浮べて、若者たちと共に踊っていたのでした。

 翌日、さまざまなイベントの時々にその90代の私たちの兄弟は若者たちの喝采を浴びていました。彼らは拍手をして、その会員の名前を呼んでいました。彼は微笑んで、若者たちに応じていました。私は思いました。充実した人生を過ごしてきて、今も充実して生きているサレジオ会員がここにいる、と。彼の人生は楽なものではありませんでした(彼が私に語ったところによれば、第二次大戦中の飢えと苦難を生き延びたそうです)。けれども彼の人生は意義深く、本質的なことにおいて幸福で満ちあふれていました。

 

「来年は天国で」

 クロアチアの数日前、ヴァルドッコでの祝日にはもうひとり別のサレジオ会員が私たちと共にいました。彼は94歳です。ヴァルドッコで扶助者聖マリアのお祝いをするのはいつもその会員にとって大きな恵みです。彼はつねに冗談で「来年は」天国でお祝いするだろうと言っているのですが、今年も私たちはこの素晴らしい日を共に祝う恵みを得たのでした。このときも私は、94歳になるその会員がアルゼンチンから来たサレジオ会員や信徒を連れて、たとえば慰めの聖母の聖堂(ラ・コンソラータ)などのトリノの大切な場所を訪問するため、幾度も奉仕している様子を見て驚きました。彼らは疲れ切って戻って来て、ことにその会員の疲労は大きなものでしたが、数日間彼はその人々と共にドン・ボスコの家にいる喜びを分ち合い、彼らがその意味を理解できるよう助けたのでした。

 私は自らに問い続けました。この力、このやる気はどこから来るのだろうか、と。皆さんのうちでどれだけの人がこの問いにすでに答えてくれていることでしょうか。

 

 世界中に影響を与えていると私が考えるもうひとりの証し人を最後に付け加えましょう。教皇フランシスコは神の思し召しなら今年の12月に82歳の誕生日を祝います。教皇は質素な、福音で満たされた生活を送ることを選んだことで、すべての人の良心の琴線に触れています。すべての人が、倫理の領域では現代世界における最も影響力のある人物として、教皇を認めています。彼のメッセージは単純さと真実の探求にあふれていて、イエスの力に触れていただきたいと望むすべての人々への呼びかけになっています。

 ここに彼ら3人の人生や他の多くの人々の人生の豊かさがあるのです。

 

愛があなたの力になる時

 私たちが話しているのは奉仕、献身、愛に捧げようとしている生き方についてです。

 これは、こうした献身的な生き方に満足をおぼえている数百万人もの母親、父親、祖父、祖母にあてはまることです。愛が人生を満たすとき、すべての困難、努力、犠牲そして疲労は──真夜中に若者たちと踊ることであれ、休息を取る代わりに疲れてでも町中に外出をすることであれ──かまわないこと、容易いものなのです。

 私は以前ある話を読んで深い感動を覚えました。それは愛と、犠牲を払わなくてはならないときの煩わしさに関するものです。ある時、「きわめて西洋的な」旅行者がアフリカのとある村にやって来ました。その人はサファリ服を着て、カメラ一式を携えていました。小さな弟をおんぶした10歳くらいの女の子が彼の目を捉えました。姉の小柄な体に対して弟はいささか身長があり太ってもいました。その旅行者は少女に言いました。「お嬢ちゃん、そんな重いものを肩にかついで面倒じゃないのかい?」すると少女はごく単純に愛をこめて答えたのでした。「いいえ、この子は重くはありません。あたしの弟なんです」。

 これこそが充実した人生への鍵です。私たちにとってそれがどのようなものでも、愛のために愛をこめて人生を生きること。私たちの人生もまたそうあるように願いましょう。

 心をこめて。

サレジオ会総長 アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父


《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》