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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ9月 イエスと十字架にかけられた人びと


 

総長メッセージ(”Bollettino Salesiano” 2019年9月)

イエスとこの世で十字架にかけられた人びと

私のローマの執務室には、様々なことを私に語ってくれる十字架像があります。私がペルーのサレジオ会員とサレジオ家族を訪問した際に彼の地でもらったものです。

 

 それは十字架(よく知られているようにキリスト教のシンボル)ですが、はりつけにされているのは私たちの主イエス・キリストではなく、貧しい少年です。はっきりとした強いメッセージが伝わってきます──私たちの主イエスは、今日の世界において十字架にかけられている人びとのうちに、はりつけにされている──。

 親愛なる友人、「ボレッティーノ・サレジアーノ」の読者である皆さんを悲しませるつもりはありません。ましてや「良心の呵責」を負わせようとするものでもありません。けれども、私がしばしば自分に課す質問を皆さんにも考えていただきたいのです。「私たちにはもっと公正な世界を作り上げることはできないのだろうか。絶対に無理なのか」。

 私たちにはそれができると私は信じたいのです。私たちは少しずつではあっても、前進しているのだと。けれども、道はこれから先もまだなお続きます! というのも、過去6年間、世界中のサレジオ会の拠点を旅して私はあまりにも多くの十字架を目にしたからです。これは実に強烈な表現ではないでしょうか……。

●十字架にかけられていたのは、コロンビア、スリランカ、アンゴラのルアンダにあるサレジオ会事業所で私が出会ったストリートチルドレンでした(そして、嘆かわしいことに、世界のその他、多くの場所で今も路上生活をしている子どもたちです)。

●十字架にかけられていたのは、コロンビアのシウダード・ドン・ボスコで私が知り合った10代の少年少女たちでした。FARC(コロンビア革命軍)により、兵士にされていたのです。

●私が執務室に置いているものと同じような十字架にかけられていたのは、シエラレオネの首都フリータウンで性的搾取を受けた若い女性や少女たちでした。彼女たちはサレジオ会の施設に保護され、そこで世話になっています。しかし、まだ多くの少女たちが路上にいたり、マフィアのような犯罪集団に拘束されたりしているのです。

●十字架にかけられていたのは、ガーナのドン・ボスコ・ホームで私が出会った少年少女たちでした。彼らは臓器売買を行うマフィアから救い出されたのです。私がそのホームを訪れた日に会った9歳になるふたりの少女たちも「死の宣告を受けていた」のですが、幸いなことにみ摂理により、そのような結末の前に警察によって救出され、サレジオの家に連れて来られました。しかし、いのちを奪われる子どもたちは疑いなく大勢いるのです。

●十字架にかけられていたのは、正規の裁判を受けずに何年もの間、刑務所に入れられている多くのティーンエイジャーたちです。私たちの兄弟サレジオ会員たちは毎日その少年たちを訪問しますが、彼らにはわずかな希望しかありません。刑務所にいるそのような若者たちの中で、私は幾人かを訪ねることができました。彼らは末期的な病をかかえています。彼らに希望はありませんでした。神をおいてほかに。

●十字架にかけられていたのは、私が訪れたいくつかの国々に住む、様々な場で働く少女たちでした。私たちはそのような少女たちが学校に通う許可を得られるよう交渉したのですが、真っ先に抵抗したのは彼女たちの家族でした。賃金を失ってしまうからです(それがほんのわずかだとしても)。

●長年にわたり十字架にかけられてきたのは、ブラジルのボロロ族とシャバンテ族の家族たちです。権力を持った地主によって土地を奪われる危機に直面してきたのです。私たちの兄弟であるサレジオ会員ルドルフ・ルンケンバイン神父とインディオのシマオも銃で撃たれ、十字架にかけられました。このふたりのことは別の機会にも書きました。

●十字架にかけられているのは、私がアレッポで会った数百人もの孤児たちです。理解しがたい戦争のために彼らはすべてを奪い取られました。

●数か月前にイエスのために十字架にかけられたのは、ブルキナファソで殺された私たちのサレジオ会員、セサル・アントニオ神父とフェルナンド・エルナンデス神父でした。

●この世界で十字架にかけられているのは、われらの海、地中海で密航のためにおぼれてしまったすべての人びとです。彼らは途方もない額の「渡航」費用を払わされた末に、安全の保障もないまま地中海に放り出され、見捨てられたのです。彼らの旅を渡航と呼ぶのは何という皮肉でしょう。

●十字架にかけられたのは、エルサルヴァドルを出発して、2歳の娘ヴァレリアを腕に抱きながらリオグランデで亡くなったオスカル・アルベルト・マルティネスです。

 すべての大陸と多くの国々で私は、この世で十字架にかけられた人びとに会いました。そこで今日、私は皆さんにごく簡単な短い言葉を言いたいのです。私、また私たちは、貧しい人びとがこのような犠牲を払うことが、ごく普通のこと、当り前のこと、自然なことのようにとらえられるのを、拒絶しなければなりません。戦時の偽善的な軍隊用語に「付帯的損害」という言い方があります。けれども、決して、絶対に、死、人のいのちが失われることをそのようにとらえてはなりません!

 あまりにも多くの十字架像と向かい合う時、私たちはこれらの事柄は決して避けられないこと、免れ得ないことではないのだと、目を覚まし意識して見なければなりません。非難すべきことを非難するために目を覚ましていなければなりません。何ができるか、どのようにして、誰と力を合せることができるかをわかるために積極的になるべきなのです。

 歴史上の偉人たち、偉大であり単純でもあった聖人たちはそうしてきました。彼らは大勢います。私たちが最もよく知っているのは、われらの愛するドン・ボスコです。彼は不正な状況に対し、正義にかなった答えを常に探し求めました。

 最後になりましたが、友である皆さん、十字架のことを黙想する次の機会にはこれらの言葉のいくつかを思い出してください。なぜなら、かなりの可能性として──私は心に痛みを感じながら言いますが──これからもまだ十字架にかけられようとしている人びとがいるのですから。

 皆さんによき主の祝福がありますように。

サレジオ会総長 アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父

《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》