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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ11月「よき知らせは今も存在します!」


 

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総長メッセージ(”Bollettino Salesiano” 2018年11月)

よき知らせは今も存在します!

サレジオ会とサレジアン・シスターズの新たな宣教者たちは世界中に神の存在を証しするように呼ばれて、紛れもないサレジオ的スタイルで最も低いところ、最も小さい人びとのところからスタートするのです。  

 

 「ボレッティーノ・サレジアーノ」(サレジオ会会報)の友人である親愛なる皆さん、第149回宣教派遣の日にこれから旅立とうとする10人のサレジアン・シスターズ会員と25人のサレジオ会員に宣教の十字架を手渡したわずか数時間後に、私はこの文章を皆さんに宛ててしたためています。第1回の宣教派遣は1875年11月11日、ドン・ボスコ自身によって準備され、その際には最初の10人のサレジオ会宣教師─6人の若い司祭と4人の修道士─がアルゼンチンに派遣されました。そのあとにおよそ11000人のサレジオ会員と、2500人、うち2000人以上がイタリア人のサレジアン・シスターズ会員が続き、ヨーロッパから世界に向けて出発したのです。

 これはまさに驚くべき事実で、知るべき、伝えるべきよき知らせが今もあると私に言わせるものです。

 十字架を渡しながら、私はあの若い男性、女性たちの目に共通の光を見ました。彼らが宣言した言葉を映し出すものです。「私は詩編105の言葉を生きることを望みます。主はみこころに従う、『僕モーセを遣わし、アロンを選んで遣わされた』。私が選択したのではなく、主に呼ばれたのです」。彼らの晴々として決然たる態度に、私たちは自分自身の召命をある意味で味わい直すことができました。

 ここでいう召し出しは、奉献生活を送るサレジオ会、サレジアン・シスターズの会員だけでなく、サレジオ家族の全員に関係するものです。なぜなら私たちは、この愛すべき素晴らしい、そしてまた苦しんでいる世界の隅々にまで、若者たちと貧しい人びとのための宣教の使徒となるよう、さまざまな形で、招かれているからです。

 実際、キリスト者は使命をもっているのではなく、キリスト者が使命そのものなのです。すべてのキリスト者は受肉の神秘を生きるように呼ばれています。つまり具体的な自分の身体と共同体の神秘的身体において、神の生きた存在とならなくてはならないのです。

 キリスト者はイエスのための使命を生き、キリスト者を受け入れる人は誰でも神をもてなすことになります。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(ヨハネによる福音書13章20節)。  

 聖フランシスコの『小さき花』には次のような心温まる物語があります。ある日のこと、修道院から出かけるときに聖フランシスコは兄弟レオに出会いました。彼は単純で善良な修道士で、聖フランシスコは彼のことをとても大事に思っていました。聖人は話しかけました。「兄弟レオよ、いらっしゃい。一緒に説教に行きましょう」。
 「父よ」、兄弟レオは答えました。「私には学がないことをご存じのはずです。どうして私が人びとに語りかけることができるでしょうか」。
 けれども、聖フランシスコが言い続けるので、兄弟レオは出かけることにしました。2人は店や庭で働いている一人ひとりのために静かに祈りながら町中を歩きました。彼らは子どもたち、とりわけ貧しい子どもたちに微笑みかけました。年取っている人びととは言葉を交しました。病気の人びとをいたわりました。水でいっぱいの容器を運ぶ女の人の手伝いをしました。
 町中を何度も巡り歩いたあと、聖フランシスコは言いました。「兄弟レオよ、修道院に戻る時間になりましたね」。
 「では私たちの説教はどうなりましたか」。
 「もう済ませたよ、もう済ませたではないか」聖フランシスコは微笑みながら答えたのでした。

 最上の説教はいつも肉と血によるものです。イエスはキリスト者を塩にたとえました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイによる福音書5章13節)。

 聖パウロは人びとを芳香にたとえています。「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(コリントの信徒への手紙2章15節)。香水を身につけている人はそれを皆に言わなくてもよいのです。香水が知らせてくれるからです。

 教皇フランシスコは『喜びに喜べ』の中で次のように書いておられます。「わたしは、神の民の忍耐の中に聖性を見るのが好きです。あふれるほどの愛を注いで子育てにあたる親、家族の生活の糧のために働く人、笑顔を絶やさない、病にある人や高齢の修道者です。日々歩み続けるこの根気の道に、わたしは闘う教会の聖性を見ます。それは大抵、わたしたちのすぐ近くで神の現存を映し出す『身近な』聖性です。」(使徒的勧告『喜びに喜べ』7)

 

小さい人びとのための粘り強く勇敢な宣教師

 すでに書いたとおり、私たちの母なる扶助者聖マリアの大聖堂から世界の隅々へ、143年間に147回の派遣が行われました。

 1875年の最初の派遣のあと、ドン・ボスコは1876年に次の派遣を行い、1877年にはマードレ・マザレロの祝福と共に最初のサレジアン・シスターズ宣教女を送り出しました。そのときのシスターたちは皆若く、17歳から25歳までの会員でした。ドン・ボスコの存命中、宣教団が派遣されたのは1878年、1883年、1885年、1886年、1887年、そして1888年です。私たちの大事なドン・ボスコが亡くなるまでに149人のサレジオ会員と50人のサレジアン・シスターズ会員がアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、チリそしてエクアドルへと旅立ちました。

 彼らは私たち家族の勇気ある前衛です。彼らが送り出されたのは「行うため」、いつでもただ「行うため」ではなく、精神をもたらすため、ドン・ボスコの抱擁、マードレ・マザレロの優しい人間性、そして福音の情熱を生きている人の大胆さを広めるためでした。

 新たに誕生した宣教師たちに伝えたことを、ここで皆さんにもお話ししましょう。「牧者の愛があなた方の存在と行動の中心にあることを願います。ドン・ボスコそして私たちの聖人たちが愛し、従った福音のキリストが、あなた方の人格の中心におられますように。あなた方が謙虚さと熱心さをもって、子としての教会の感覚、若者たちへの特別な愛、私たちの予防教育法の特徴である慈愛を、家族の精神、疲れを知らない働き、節制によって生きることができますように。いつも神との一致のうちに楽天的で喜びにあふれ、創造的で柔軟でありますように。そして決して忘れないでください。御父の抱擁がやがて私たちが行き着く天で待ち受けていることを。そのとき私たちは孤独ではなく、私たちがこれからいのちを捧げようとする多くの人びとに寄り添われているのです」。

 私たちはこの世で神の存在を証しするようにと呼ばれました。紛れもないサレジオ的なスタイルによって─最も低いところ、最も小さい人びとからスタートして。

 マナグアの小児科病院で院長を務めるフェルナンド・シルバ教授が胸を打つ体験を話しています。あるクリスマス・イブのこと、彼は遅くまで働いていました。フェルナンドがパーティーを準備している家族のもとに帰ろうとしたとき、すでにロケット花火の音が聞こえ、空は打ち上げ花火で明るく照らされていました。
 すべてが問題なく行っていることを確認するため最後の見回りをしていると、後ろの方で突然かすかな物音がしました。それはまるで綿のように柔らかい足音でした。振り返ってみると、そこには、彼について来ている一人の小さな患者の姿がありました。
 薄明かりの中で誰だかわかりました。一人も身寄りのない男の子でした。  フェルナンドはすでに死相の表れているその子の顔を認めました。男の子の目はあやまろうとしているか、それとも許可を求めているかのようでした。
 フェルナンドが男の子に近づくと、男の子はフェルナンドの手をそっとなでて、ささやいたのでした。「ねえ、誰かに言って。僕がここにいることを誰かに伝えて」と。

 リマで開かれたストリート・チルドレンの写真展で、写真の下にこういうキャプションがありました。「僕(わたし)がいることをわかっているのに、誰も見てくれない。僕(わたし)は社会的な問題、統計上の数字だけど、誰も僕(わたし)を見ない。」

 私たちはどこにいてもサレジオ家族のメンバーです。忘れられた人びと、見えない人びとの声に耳を傾けましょう。私たちは最も小さく、置き去りにされた人びとのための粘り強く勇敢な宣教師であるようにと招かれています。私たちの師、主である方がなさったようにひざまずいて他者の足を洗うようにと呼ばれているのです。

 自分の身を低くすることのできる人だけが聴くことができるのです。とりわけ最も小さい人びとの声を。小さい人びとには言うべきことがあり、分ち合うための人生を生きています。

 親愛なる皆さん、あなた方は至る所で大勢の善意の人びとに出会うでしょう。その中には私たちと同じようには考えない人や別の世界観をもつ人、他の宗教を実践して生きている人もいるでしょう。けれども、彼らがよい人びとで善を行うなら、美しさを尊び、真理を探し求めているのです。多くの場合、政治的、社会的、経済的に力をもつ人びとによる不正義、不平等、暴力のために引き起こされた多くの苦しみをも、皆さんは目にするでしょう。

 それでもあなた方はいつも、最も貧しい人びと、脅かされている人びと、困窮状態にある人びとのそばにいなくてはいけません。

 このことに関して、143年前にドン・ボスコ自らが最初の宣教師たちに手渡すことを望んだ覚書の一節を思い起しましょう。蒸気船サボイア号が出港する際のことです。「病気の人、子どもたち、年老いた人、貧しい人の世話をしなさい。そうすれば、神の祝福と人びとの善意を得ることでしょう」そしてカリエロ神父にしたためたカードにはこうありました。「あなたにできることをしなさい。私たちにできないことは神がしてくださるでしょう。ご聖体におられるイエスと扶助者聖マリアにすべてを委ねれば、奇跡とは何かがわかるでしょう」。

 心をこめて

サレジオ会総長 アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父


《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》