ページのトップへ

サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ「ドン・ボスコのクリスマス」


 

総長メッセージ(2017年12月)

アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父

少年少女や若者たちを現代のヘロデから守り、ちょうどドン・ボスコのように天使に導かれ夢見続けるサレジオ会員の姿を、私は世界の至る所で目にしてきました。

 

 1842年、トリノの善良な市民はかつて見たこともないような光景に遭遇しました。市街の中心部のおしゃれな通りで少年たちがクリスマスの聖歌を歌っていました。彼らを指揮しているのは一人の司祭でした! その音楽は素朴なものでしたが、心をこめて歌う少年たちの姿は人びとを感動せずにはおきませんでした。ドン・ボスコには彼らを集めて練習させる場所がなかったので、そのまま通りで練習させたのです。そこは少年たちにとってなじみの場所でした。そのときの聖歌も窓辺で書きとめられたものでした。

 少年たちは歩きながらクリスマスを過しました。それはナザレからベツレヘムに向かって旅をしなければならなかったイエスの両親のようでした。イエスの両親は知らない土地で生活することが何を意味するかを体験しました。宿屋には彼らのための部屋がありませんでした。人びとの家の扉は閉ざされていました。

 マリアとヨセフは多くの難民や外国人労働者の運命を共有しました。現代でも2000年前と同様に人びとは家を探し求め、拒絶されるのです。ドン・ボスコの少年たちもあらゆる危険を離れ成長してゆける安全な場所を探していました。ドン・ボスコは彼らと一緒になってそれを探し、そのために自分の生涯を捧げたのでした。

 世界中のサレジオ会員を訪問して、私はドン・ボスコの息子たちの守ってくれる腕と愛情のうちに住み処と保護を見つけることのできた多くの少年少女、若者たちと出会いました。そしてまた、幸せに満たされて共に歌う少年少女たちを世界中で目にしました。

 イエスは厩(うまや)で生れました。人びとはイエスを迎え入れませんでした。雨露しのぐ場所をイエスと共にしたのは卑しい動物たちでした。ドン・ボスコは汚れて壊れかけた小屋から事業を始めました。イエスの誕生により厩は光で満たされました。あたたかく優しい光でした。貧しく蔑まれていたすべてのものが貴(とうと)いものになりました。動物のための飼葉桶がいと高き御方の玉座になったのです。

 みすぼらしいピナルディ小屋は見る人誰をもがっかりさせるようなものでした。ドン・ジョヴァンニ・バッティスタ・フランチェジアは証言しています。「ドン・ボスコがオラトリオにするために初めてその場所を訪れた時、頭をぶつけないように気をつけなければならなかった。片側は天井が1メートルの高さしかなかったからだ。床の代わりにむき出しの地面で、雨が降るとどこも水びたしだった。ドン・ボスコは大きなネズミが足の間を走り抜けるのを感じ、頭の上をコウモリがかすめた」。

 しかしドン・ボスコにとって、そこは世界中で一番素晴らしい場所でした。「『やったぞ、みんな。オラトリオができるんだ。もう引っ越さなくても済むオラトリオが。聖堂も、祭具室も、教室も、運動場も全部そろっているオラトリオだ。日曜日に、そう、今度の日曜日に新しいオラトリオに移ろう。あちらのほうにあるピナルディさんの家に行こう』。こう言ってわたしは方角を指し示しました。
 この知らせに子どもたちは狂喜しました。ある者はうれしさのあまり走り出したり、踊りあがったりしました。ある者は身じろぎひとつしませんでした。またある者は歓声をあげ、いろいろと奇声を発して何か夢中でわめいていました」(『オラトリオ回想録』ジョヴァンニ・ボスコ著、石川康輔/浦田慎二郎編訳、ドン・ボスコ社、2015年、222ページ)。

 なぜジョヴァンニ・ボスコは夢見たのでしょうか。マタイの福音書ではクリスマスの天使の現れ方は違っています。そこにはご降誕を取り囲むまばゆい光はありませんでした。天使はヨセフの夢の中に現れました。天使は幼な子の世話をすることを神のみ名において命じました。天使は他の時にも夢に姿を見せました。マリアの御子がそれ以上誰からも命をねらわれることのない年齢に達するまで、ヨセフは言われたとおりにことを行いました。

 夢の中でドン・ボスコは少年や青年の世話をすること、愛情と善意をこめて彼らの成長を助けること、彼らをヘロデから守り抜くことを呼びかけられました。少年少女や若者たちを現代のヘロデから守り、ちょうどドン・ボスコのように天使に導かれ夢見続けるサレジオ会員の姿を、私は世界の至る所で目にしてきました。

《羊飼いがしたようにしなさい》
 クリスマスに寄せる私の言葉をドン・ボスコ自身に締めくくってもらいます。オラトリオでのクリスマスのノヴェナ(9日間の祈り)に先んずるボナノッテでドン・ボスコは話しました。

 「明日からクリスマスのノヴェナが始まります。その期間中私は二つのことを勧めます。幼な子イエスのことをしばしば思い出しなさい。君たちに与えてくださる愛のこと、君たちのために命を捧げるほどの愛の証しのことを。朝、鐘の音ですぐに起き、寒さを感じるとき、わらの中で寒さに震えていた幼な子イエスを思い出しなさい。一日を通してイエスへの愛のためにお互いに学校でよく学び、よく働き、集中していられるように励まし合いなさい。イエスが神と人びとの前で、知恵と年齢において恵みのうちに成長したことを忘れてはいけません。何よりもまずイエスへの愛のためにイエスの気持ちを損うどのような罪にも陥らないようよく気をつけなさい。ベツレヘムの羊飼いたちがしたようにするのです:イエスをたびたび訪れなさい。私たちはベツレヘムの厩に行った羊飼いたちをうらやましく思います。彼らは生れたばかりの幼な子イエスを見ました。その小さな手にキスしました。そして贈り物をしました。何と幸せな羊飼いたちだろうと私たちは言います。それでも私たちは、何ら彼らをうらやむ必要がありません。同じ祝福が私たちにも与えられているからです。あの同じイエスが、厩で羊飼いたちの訪問を受けた御方が、この私たちの聖櫃にもおられるのです。唯一違うことは、羊飼いたちは身体の眼でイエスを見たけれど、私たちは信仰の眼で彼を見るということです。イエスのもとをしばしば訪れる以上に、私たちがイエスを喜ばせるためにできることはありません。どのようにしてイエスのところに行けばいいのでしょう。まずは頻繁な聖体拝領です。もう一つの方法は一日の間に何度か、たった1分でも教会に立ち寄ることです。」

 サレジオの事業がある所ならどこでも、私は教会を見てきました。小さな教会もあれば、大きな教会もありましたが、どの教会も必ず幼な子イエスを腕に抱いたマリアの像がありました。ちょうど2000年前のベツレヘムのように。

《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》