総長「神の名は“いつくしみ”」
総長メッセージ(2016年8月)
神の名は“いつくしみ”
アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父
私たちはサレジオ家族、ある確信に深く根ざすカリスマの担い手です。我々の神は、ご自分の子どもたち、世界の若者、特に、今日に至るまで機会に恵まれて来なかった子ども・若者に、特別な優しい愛情を表される神であるという確信です。
教皇フランシスコは、全世界の教会にいつくしみの特別聖年を与えました。聖年は2015年12月8日、無原罪の聖マリアの祭日に開始され、2016年11月20日、全世界の王、イエス・キリスト(王であるキリスト)を祝う荘厳ミサをもって閉幕します。
教皇はこの聖年の心、中心に、「いつくしみの神秘」を観想する必要性を据えました(私たちにとっていつも必要なこと)。なぜならそれは、喜び、安らかさ、平和の泉であるからです。特別聖年公布の大勅書で、フランシスコ教皇は心に感じることを語っておられます:「神の優しさと温かさを届けつつ一人ひとりと出会えるよう、これからの年月がいつくしみに浸ることを、わたしはどれほど願っていることでしょう。信じる人にも信仰から遠く離れた人にも、すべての人に、すでにわたしたちの間にある神の国のしるしとして、いつくしみの芳しい香りが届きますように。」(特別聖年公布の大勅書, 5)
私はこのメッセージの題を「神の名はいつくしみ」としました。数か月前の教皇フランシスコのインタビューにつけられた同じ題です。そのインタビューで、教皇様は、聖年について、聖年を宣言するに至った動機について、たくさんの質問に答えておられました。「教皇様にとっていつくしみとは何ですか?」という質問に、教皇は答えました。「いつくしみは、私たちの神の身分証です:私たちの神は、いつくしみの神、あわれみ深い神です。」この言葉は非常にシンプルであると同時に、実に根本的であり、そして解放する力のあるものです。
サレジオの現実に関連して、この言葉に触れないままこの特別な年を過ごしてしまうことはできないと私は感じました。なぜなら第一に、私たちは、この世界のおびただしい若者の教育者だからです。私たちはサレジオ家族、ある確信に深く根ざすカリスマの担い手です。我々の神は、ご自分の子どもたち、世界の若者、特に、今日に至るまで機会に恵まれて来なかった子ども・若者に、特別な優しい愛情を表される神であるという確信です。
いつくしみというテーマについて、世界中で何百何千というページが書かれ、出版されてきました。私の言葉は新たな洞察をもたらすものではありませんが、強いメッセージを携えるものです:それはある「呼びかけ」です ― すべての教育者、すべての奉献生活・修道生活を生きる人への呼びかけ、私たちの基本的務めを繰り返すこの呼びかけです:私たちの神のいつくしみを、真実に告げる者になること、出会いを通して、人々に神のいつくしみを広めながら。
何よりもまず、この確信から始めなければなりません:神のいつくしみを体験した人だけが、真実に神を知っています。つまり、神の優しい愛情に満ちたまなざしを必要とすることを感じたことがあるとき、はじめて私たちは、神が私たちにとって、子ども・若者たちにとって、どのような方であるか、自分の信じていることを、その人を変容させる、効果ある輝きを、いくらか子ども・若者たちに伝えていくことができるでしょう。私たちは、神がくださるいつくしみについて、授業を教える教師のように語ることはできないのです。私たちは、自分の確信について、弱い信仰でありながら、それでも驚くべき力を発揮できるという確かさについて分かち合うことしかできません。
二つの星
同時に、若者たちのただ中で、自分たちの存在のありかた、行動の仕方を通して、私たちの自己贈与や惜しみない奉仕を通してさえも、神がどのように若者を愛されるかを具体的に表すすばらしい機会を手にしていることを知って、サレジオの心は喜びを感じなければなりません。それはまさに、「二つの星」という訓話が語っていることです:
あるところに、たいへん禁欲的な生活を送る人がいました。彼は、日が暮れるまで食べ物も飲み物も口にしないと誓っていました。彼は、自分の犠牲が天によろこばれていると知っていました。なぜなら、毎夜、谷に近い、いちばん高い山の上に、誰にも見える、明るく輝く星がまたたいたからです。
ある日、その人は、そのいちばん高い山に登ることにしました。すると村の小さな少年が、自分もついて行くと言い張りました。暑さときつい運動から、二人は間もなく渇きをおぼえました。男は小さな少年に、水を飲むようにすすめましたが、少年は答えました。「おじさんが飲むなら飲むよ!」
気の毒にその人は、とても困った状況に陥っていました。誓いを破りたくありませんでしたが、幼い子どもを渇きで苦しめることもしたくありませんでした。とうとう彼は水を飲み、小さな少年も水を飲みました。
その夜、男は、星が消えているのではないかと不安で、空を見上げる勇気がありませんでした。
しばらくして目を上げてみたときの、その人の驚きを想像できるでしょう。山の上には、二つの星が明るく輝いていたのです。
若者は、修道者や教育者が目に見える神のあわれみ深い顔として傍らにいて、自分の幸せのためにいのちをささげていると感じるとき、たくさんの言葉を聞く必要はありません。何かの間違いをおかしたとき、若者は裁かれるように感じることなく、変わりなく受け入れられ、理解されると感じます。このようにして、たとえ過ちを指摘されたとしても、自分は変わりなく神に愛されている子どもだと感じ、父のあわれみ深い顔が人生のうちに輝いているのを感じるのです。ドン・ボスコの人生でそうであったように、この世でも永遠においても幸せであってほしいと、私たちが自分たちのために願っていると気づくとき、若者は神の無条件の愛を直接的に体験するのです。
この聖年が、そしてその後の歳月も、引きつづき実りをもたらすものであることを期待しましょう。この時は、人間が成長し、平和に向かって歩む機会でもあります。たとえ私たちの歩みが、はなはだ不確かなもののように思えることがあるとしても。
我らの神が人類の歴史を共に歩んでくださっていることを、引きつづき信じましょう。たとえ私たちが、自由によって、一歩前進するよりも二歩下がるようなことをしてしまうことがあるとしても。
愛する友人の皆さん、あらゆることにもかかわらず、その名がいつくしみであるこの神に、心を触れていただくようにしましょう。