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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

ボー枢機卿 “本物の嵐”に耐え、新たな世界に備える


 

 

(BoscoLink – 2020年5月11日 ミャンマー・ヤンゴン)
https://www.bosco.link/webzine/58548

 

ボー枢機卿メッセージ “本物の嵐”に耐え、新たな世界に備える

By アジア司教協議会連盟会長 チャールズ・ボー枢機卿

 新型コロナウィルスの世界的蔓延は今や“本物の嵐”になっています。私たちの生活のあり方、働き方、祭儀・祝祭のあり方に挑戦を投げかけています。これまでのところ、ミャンマーでのコロナウィルスの影響の広がりはゆっくりですが、より長引くということにすぎないのかもしれません。地理的位置や国境のコントロール、政府のリーダーシップと決断、公共医療体制の備えなどによって、国ごとに状況はさまざまです。すべての人にとって試練の時です。どの場合も、最も犠牲になるのは、隔離生活のできない人びと、清潔さを保つ水のない人びと、仕事を失い、日々の収入のない人びと、失業して国に帰る人びと、庇護してくれる政府のない、お腹をすかせた移住労働者たちです。多くの人にとって優先事項は、飢えのグラフの“カーブを鈍化させる”ことです。

 この時を実り豊かに、寛大な心で、希望をもって過ごすよう、皆に促したいと思います。互いに気遣い合いましょう。世界中の神を信じる人びとへの宗教指導者の呼びかけに、私も加わります。来たる5月14日を、「断食、祈り、祈願の日」としましょう。

 アジアのほとんどの国で、私たちは制限された生活を送っています。学校や工場は閉鎖され、市場は在庫がなくなりつつあり、移動は禁止されています。しかし、信じがたい、恥知らずな愚かさをもって、紛争が続いています。政府軍や民族軍の指揮官たちは、あたかも自分たちの兵器のほうがウィルスより強いと信じるかのように、兵士を危険にさらし続け、民間人を危機に陥れ続け、自国の人びとを感染の蔓延という大災害の危機にさらしているのです。

 多くの人が問います。「いつになったらすべてが収束して普通の生活に戻れるのだろう?」 「いつ収束する?」という問いへの答えは、決して収束しないというものです。それは、物事が元通りに、以前と同じにはならないという意味ではありません。たしかに元通りにはならないのですが、それだけの意味ではありません。今、私たちが行うことが今後残る、という意味で、収束しないのです。アジアは、多くの終わりのない紛争、戦争や危機、津波、サイクロン・ナルジス、たびたび襲う壊滅的な台風を経験してきました。危機のたびに自分たちは変わってきたと私たちは知っています。今回は、世界のすべての国が影響を受けています。私たちの世界は大きく変えられるでしょう。政治が変わるでしょう。国際関係も違ったものになるでしょう。

 200か国以上を襲う大災害は世界を変えます。世界大戦のようです。新型コロナウィルスがあと数か月で制御できるようになったとしても、それが残すものは数十年、私たちのもとにとどまるでしょう。私たちが共同体をどのようにとらえ、理解するか、どのように人とつながるか、私たちの移動の仕方、人間関係の築き方に影響を与えるでしょう。各国政府は、その挑戦に応えることができなければ、人びとの信頼を失うでしょう。

 危機の状況の中、私たちはリーダーシップの働きを目にします。危機における優れたリーダーシップの鍵となる要素は次のものであると、専門家は言います:方向性を示すこと、意味づけ、共感。良いリーダーは意思決定のため、透明性のある枠組みを差し出し、起きていることの意味を示し、人びとの感じていることを理解し、そうして信頼を醸成します。良いリーダーは、共に挑戦に立ち向かうため、共に責任を担うよう人びとを説得します。良いリーダーは弱い人を守り、あらゆる人種差別や分裂をすばやく根絶し、すべての人を受け入れる社会が形成されるようにします。良いリーダーは危険にさらされた共同体に特に配慮を示します。良いリーダーは共同体を築き上げ、恐れ、不安、嫌悪に対する抗体を活性化させます。情報・知識を得た市民は、無知な市民よりも効果的に行動し、力を持っています。人びとは事実を知る権利があります。状況の報告が透明に行われている国々は、情報・知識をよく身につけた市民の自発的な協力を得ています。私たちが前にする最も深刻な疫病は、信頼の崩壊です。このような危機のとき、真のリーダーは信頼を築くためにその機会を用います。

 国の建設は、首都で、政策決定者の間だけで行われるのではありません。国の建設は、社会の辺縁に暮らす人びとに耳を傾け、共に歩むことから始まります。すべての人を築き上げることです。すべての人に役割があります。コロナウィルス以前から、世界は深刻な問題に満ちていました。国々の間で、それぞれの国の中で、不平等が大手を振っていました。貧しい人びとはこの危機の中、不釣り合いにより大きな苦しみを味わうでしょう。スラムに暮らす人びと、日雇い労働者、国に帰る移住労働者などです。社会の辺縁に追いやられた人びとは、久しく顧みられていませんでした。私たちは今、恐れ、排外主義、人種差別主義という特徴を持つ画期的な変化に直面しています。今日、多くの国で、大衆に迎合するリーダーが台頭しています。ポピュリズムに対抗する解毒剤は、自己礼賛を克服し、「私たち」という体験を広めようとする、組織的に行動する市民の努力にあります。

 危機の時に採り入れられた多くの決定や実践は、恒常的なものになります。それは政府が何を優先するかを決める、その決め方、また家庭での小さなことについても当てはまります。今、どのように行動するか、今、たどる歩みは、生涯、私たちの生き方としてとどまるでしょう。家族としての生き方、隣近所の人たちと会うか、あるいは避けるか、その付き合い方、余暇の楽しみ方、休み方。それは残ります。後まで残る意識の変化がある、その変化が起きていると私たちは気づくでしょう。それはこの世界をどのように眺め、この世界とどのようにつながるかに関わります。これまでの日常に戻ることはありえません。私たちの生活は、何事もなかったかのように再開することはないでしょう。私たちが自らに問わなければならないのは、この問いです。「嵐が過ぎた後、私たちはどのような世界を望むのか?」

 社会的な結びつきが失われていることによって、私たちは熱い心でその結びつきを求めるようになっています。私たちはいったいなぜ、世界にこれほどの分裂を許してしまったのでしょう? このような対立がこれほど何十年もミャンマーを喰いつくすことがなぜ許されたのでしょう? なぜフィリピンで、アジアで、争いの止まないところがあるのでしょう? なぜアジア各地に、世界で最も長期にわたって続く戦争があるのでしょう? これまでの私たちの歴史に目を向け、問いましょう。なぜ、より強い結びつきが、その機会があったときに築かれなかったのでしょうか? なぜ何百万もの人が、ただ生きていくために外国へ移住しなければならないのでしょうか? 今、外国で仕事を失い、多くの人が少しずつ帰国しています。かつて絶望のうちに離れた故郷の村へと。私たちはここから出発して、すべての人に居場所のある、人びとを一番に大切にする経済を築くことができるでしょうか? 粘り強い連帯を、私たちは構築できるでしょうか? 互いへの尊敬に基づく共通善を、私たちは望むことができるでしょうか?

 私たちは共通善のために隔離生活に入り、自宅にとどまります。私たちは家の中に入りますが、目を外に向けなければなりません。今は忍耐の時、エネルギーと知性の時です。忍耐は実践して学ぶものです。今は私たちの生活とエネルギーを、賢明さをもって整える時です;私たちの想像力と知性を広げる時;新しい生き方を学ぶため;そして新しい世界に備えるために。私たちが互いに依存していることに気づき、一緒に協力して働くことを学び、責任を共に担い、連帯を喜んで感謝する時です。何よりも、憎しみや兵器を脇に置き、全人類を襲う共通の敵に立ち向かう時です。

 このウィルスほど全世界に根本的な影響を与えたものはありません。しかし、生きる歩みを止めてはなりません。コロナウィルスの蔓延は、内面に分け入る時間を与えてくれますが、他者の存在を意識し、互いに励まし合う時、弱い人々と連帯する時、この世界で何が起きているか理解するために祈る時も、与えてくれます。一日一日の、その新鮮さを喜んで迎えましょう。このことがすべて収束するのを、ただ待っていてはなりません。この時を、創意豊かに用いるのです。

 世界的な調査で、毎年、ミャンマーの国民は、世界で最も寛大な国民に数えられています。より多くを差し出すからではなく、より多くの人が他者に持っているものを差し出すからです。現在の危機にあって、このことは明らかになっています。苦難の中にあっても人びとの寛大さが表れます。多くの国際支援の働き手は去ったかもしれませんが、地元のNGOは同朋の中に入り、ボランティアとして、自らを顧みず、苦難の中にある人々に、生きていくために欠かせないものを届けようとしています。

 アジア全体で、多くの人が今、身体的、心理的、経済的、霊的に傷ついています。ミャンマーのカトリック教会は、KMSS(カリタス・ミャンマー Karuna Mission Social Solidarity)率いる新型コロナウィルス蔓延への全国的な対応をもって、私たちの国の特徴であるこの寛大さの運動に加わります。私たちは、人びとを支えるために手を差し伸べます。隣近所の人や地区の行政当局者は、十分な食べ物がないかもしれない人はいないか、注意を払います。今は、神のいつくしみ、あわれみ、愛をこの世界に届ける時なのです。

 どのような危機の時も、収束を待ってやり過ごそうとする自然な誘惑があります。しかし、待つことで解決策が立ち現れるわけではありません。アマルティア・センやほかの多くの人が言うように、この孤立の時の中から、より良い社会が現れてくるかもしれないのです。ただ手をこまねいて待っていてはいけません。現実から目をそむけてはいけません。私たちは積極的に行動しなければなりません。動き出しましょう。この時を活かし、私たちの未来の特徴としたいと願うリズムや人間関係を見いだし、生きるようにしましょう。新しくなった世界を想像し、備えましょう。これから何十年も、あなたを支える、共に働く信頼の人間関係を築いてください。

 アルンダティ・ロイは、新型コロナウィルスは“ポータル”、扉であると言っています。古い時と新しい時の間の断裂、少数の人々が恵まれ、多くの人が顧みられずにいる世界から、すべての人、一人ひとりの尊厳が認められる新しい世界への扉であると。その扉を通り、新しい世界へと入る準備はできていますか?

アジア司教協議会連盟会長
チャールズ・マウン・ボー枢機卿