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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

サレジオ学院高等学校 被災地支援活動報告


7月13~14日高校2年生5名、教員2名が志願生5名と合同で東日本大震災被災地ボランティア第1陣として宮城県塩釜に行ってきました。前日12日の深夜夜行バスで現地入りし、塩釜ベースに到着後、シスターの作って下さった朝食を頂き、船で活動地である桂島へ向かいました。活動内容は写真で紹介します。二日間フルに働き、その晩に帰ってくるというハードなスケジュールでしたが、参加した生徒はそれぞれ貴重な体験を積ませていただきました。活動中、ベースで仕事をされているサレジオ会ブラザー深川先生には大変お世話になりました。この場を借りてお礼を申し上げます。

《生徒達の感想文》
7月12日~14日の間、ボランティアへ行かせていただき1番感じたことは人と人とのつながりのすばらしさです。現状を把握していないまま現場へと行き、最初はただ言われるがままに従うだけでした。しかし、家の状態を目の当たりにした瞬間、とても大きな衝撃を受けました。未だに被災者の悲しみは計り知れないと感じています。
このような状態の中で、ボランティアの方々や被災者の方々は、手を取り合って大きな悲しい現実に立ち向かっていました。僕も自然と自主的にボランティアを行うようになっていました。
一人の力でできることは微力でしたが、心を通わせた人々が手を取り合ってできる力はとても大きな物でした。そして、その力は被災者から、またボランティアの方々の笑顔を生み出していました。
多くのものを見てきましたが、あまりに大きく、あまりに悲しことで、まだ頭の整理ができない状態で箇条書きになってしまいましたが、今回のことで学んだことは心にしみるとても大きなものでした。(高2 T)

行く前日は,プリントを見て側溝洗いなどをするかと考えていましたが、まさか炎天下で何時間も働くとは思ってもいませんでした。ひどい筋肉痛になりました。
仙台駅の付近や本塩釜の駅前を見る限り、被災地に来たという実感が湧きませんでした。町にはがれきもなければ、津波の残した爪痕が見当たらなかったからです。しかしよく町を見てみると、その町並みは津波が襲った後に最近建設したばかりの建物だと気づき,心を痛めました。また市内の住宅地を見ても、一見きれいに見えても、ところどころにがれきの山があったり,壁がはがれた家があったりで深刻な現状を前に複雑な心境でした。あまりメディアの対象になっていない塩釜でこんな状態なら,石巻や女川などは一体どこまでひどいものだろうかと思い、自分の無力さを感じました。
2日間とも島内で活動しましたが、こちらも新しい桟橋が完成していて,一見被害が少なく見えましたが、そばの道路の地盤沈下や島の反対側のがれきの山などを見ると、津波が本当に恐ろしいものなんだと再認識しました。がれきの中には家財道具や毛布、壊れた車などが山積みになっていました。これを見て、津波が奪ったものは家だけでなく、生活や人の気持ち、数えきれない思い出など復興しても戻ってこないものだったと感じました。本当に悲しみがひしひしと伝わってきました。
働いている間はそれに夢中で被災者のためだとか、そういう気持ちが薄れている時もありましたが、作った土のうをおばあちゃんの家に運んだ時、少し話をして、自分たちが本当に必要とされていることを確認でき,このくらいの作業は耐えなければと気持ちを入れかえて頑張ることができました。
被災地の現状に触れ、島民の方々の温かさに触れ、言葉にできないけれど、かけがえのない体験をすることができました。ありがとうございました。(高2 S)

今回ボランティアに参加してたくさんのことに気づかされました。その中でやはり被害の甚大さと被災者に残した傷跡がどれだけ大きかったのかということが一番印象に残っています。地面は歪み、津波によって家屋は流され,船は陸に取り残されて・・・。あまりに多くの例があって挙げることができないくらいです。「本当にここは日本なのか?」と疑うぐらいでした。
自分は桂島という離島で二日間作業をさせてもらいました。桂島は高い丘がなく、津波が横断してしまった島でした。津波の押し寄せた側は滅茶苦茶になっていて、砂浜にはコンテナや船、家屋の木材などが散乱していました。またそこに建っていたであろう家屋は土台から引き剥がされ,丘の方へ流されていました。その流された家屋の一つにとても印象に残る、今回自分のボランティア活動の中で一番心に刻みつけられた光景がありました。その家屋(倒壊して1階が潰れている)の屋根には黒いペンキで『サヨナラ我が家』と書かれていました。なんだかとても悲しくなって涙がでそうでした。
自分はこのボランティア活動でいっぱい見て,撮って、焼き付けて家に帰って事の大きさを友達や家族に見せて知らせてあげよう・・・と思っていました。でもその光景を自分は撮ることができませんでした。あまりにも衝撃的で生々しいものだと思ったからです。自分には帰る家があって何の不自由もない生活を送っていられる。でもこの家の住民はもう帰る家がないのです。そう考えるとなんだかとても申し訳なく思えてきました。自分たちは2日間その状況に身を置いているだけであるのに対し、被災者はこれからもずっとこの状況と過ごさなければならないのです。
そういうことから自分たちの微力さを実感しました。もちろんよいことにも気づきました。人と人は協力すれば何でもできる。微力は無力でない、ということや作業した時に出会ったおばあちゃんの感謝の笑顔がとても嬉しかったことなどです。
そんなボランティア活動でした。まだまだ道のりは長いです。またボランティアとして被災地に行きたいと強く思いました。(高2 I)

僕は東日本大震災ボランティアとして、仙台に行きました。僕はボランティアをするのは初めてで,何をするのかあまり想像できませんでした。
実際に行ってしたことは、主に土のう作りです。袋の中に土を入れて、口をしっかりと縛り、トラックに積み込んで運ぶという、単純ですが体力的に厳しい仕事でした。自分の作っているどのうが何故必要なのか、最初はよくわからずあまりやりがいを感じませんでした。しかし、満潮になると、地盤沈下した港に海水が浸水してきて、それを塞き止めようしている土のうの姿がありました。まだ数が足りないのか、海水は土のうを超えて港にあがってきます。その時、自分たちの仕事の意味と、一日苦労していた仕事の小ささを思い知らされました。小さいけれど、誰かがやらないといけないし、小さいからこそ、皆が協力する必要があるのだと感じました。
一日目の仕事が終わり、特に被害が大きかった場所を見学させてもらいました。土台しかない家、家に乗り上げた車、根元からへし折られた木、被害の大きさをはっきりと物語っていました。家の中には、ぬいぐるみやおもちゃなど、ごく普通の生活が見えて、ここで人が暮らしていたのだと言うことが分かり、テレビよりも生々しくこの災害の悲惨さを感じました。そんな中で、海外に花火のゴミが散らばっているのを見ました。どういうつもりで、そこに花火をしてゴミを捨てていったのか分かりませんが、少し悲しい気持ちになりました。
今回のボランティアを通じて、いろいろな現実を感じました。周りの人たちの温かさ、傍観することの冷たさも感じました。いずれにしても、今僕がやるべきことは、この経験をたくさんの人に伝えることだと思います。(高2 S)

写真(左上から右へ)
(1)早朝の仙台駅を塩釜に向かう高校生
(2)出発前にお昼のおにぎりを各自の好みのレシピで作る
(3)作業にはおそろいのビブスを着て行きます。
(4)出発前、気合い十分。
(5)船に乗り、桂島へ
(6)(7)地盤沈下で浸水する家屋のために土のうをつくる作業。炎天下ひたすら土のうをつくる作業はかなりハードでしたが、みんな頑張りました。
(8)こまめに水分補給と休憩をとり熱中症にならないようにしました。
(9)(10)お年寄りの家の草刈り。復興と一見関係なさそうですが、普段ならできるはずことに手が回らない方々に代わってする日常の仕事は立派なボランティアです。
(11)(12)(13)(14)(15)海岸に打ち上げられたものを撤去する作業。なんでこんな物が・・・というものが流れ着いていました。砂に埋もれたコンテナーを撤去するのに8人掛かりで2時間近くかかりました。
(16)(17)桂島を始め離島部ではまだ手が回っていないようです。4ヶ月を過ぎてもまだ破損した家屋が残っていました。また地盤沈下も深刻で、満潮時には港の岸壁を乗り越えて海水が上がってきます。
(18)仕事を終えて、みんなで記念写真。
(19)カモメの餌付け
(20)船で塩釜へ