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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ2026年10月:恐れてはならない


総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2026年10月)

恐れてはならない

マタイによる福音書10章26節から33節の省察

イエスが弟子たちに「恐れてはならない」と呼びかけるとき、私たちはこの呼びかけを表面的なスローガンに変えてしまわないように気をつけなくてはなりません。これは、ご自分と歩むこと、共にいることを選んだ人々への師からの言葉なのです。イエスの弟子たちは欠点を持ち合せながら、師に従うために、すでにすべてを後にした人々です。ご自分との友情が意味すること、ご自分と真剣に向き合うことのかけがえのなさを見いだしつつある人々に、イエスは語りかけます。恐れてはならないという命令がその十全の重みをもつのは、実にこの友情の絆においてなのです。

 

I.恐れてはならない - 選ぶのではなく発見すること

私たちはこの言葉を、勇気をもつようにという呼びかけとして読んでしまいがちです。意志の力で、あるいはポジティブでいることによって、自分自身の深いところから呼び起こす勇気。しかしそのような意味ではありません。

イエスの招きは人間の思惑にはよらないものです。空っぽの楽観主義ではありません。イエスは弟子たちを「狼の群れに羊」(マタイ10:16)を送り込むように送り出し、現実の危険や敵対に立ち向かわせます。それでは、「恐れてはならない」とは、実のところ何を意味するのでしょうか。

「恐れない」ことは、イエスに従う人々に「何か」が起きたからこそ可能なのです。あるきずなが形成されました。友情 - この言葉の最も深い意味において - が、弟子たちの心の深みに根ざすものとして生じます。イエスとの友情は、他のどのような友情とも違います。イエスのうちに、イエスと共に、私たちは自分が知られていること、そのため、支えられていることに気づきます。このきずなは、感傷的なたとえではありません。親密さを語る言葉なのです。

ですから、恐れないことは、イエスの近くにとどまる実践によって、私たちが、祈りのうちに、み言葉への傾聴、秘跡における主との出会い、貧しい人々と若い人々への奉仕のうちに、ゆっくりと時間をかけて見いだすことなのです。私たちは、努力をもって始めたことが信頼へと発展することに、少しずつ気づきます。自分を律することとして始めたことが愛になります。そしてその愛のうちに、恐れは、消えはしませんが、身動きを取れなくするその力は失われます。私たちはもはや奴隷ではなく、イエスの愛にいだかれているので、自由なのです。

 

II.イエスに従うこと - 私たちの人間性を豊かにする旅

イエスは弟子たちを送り出しますが、彼らを見捨てるのではありません。この箇所の全体的な動きは、同伴という文脈のうちに行われる宣教です。イエスは弟子たちに、彼らが直面するであろうこと、御父がどなたであるかを教えます。御父の前で彼らのために証しすることを約束されます。言い換えれば、イエスはただ指示を与えるだけでなく、ご自身をお与えになるのです。

キリスト者の生き方の中心はこれです。ある道徳律を守ることではなく、ある御方に自らを委ねる歩みです。「イエスに従う」はあまりに身近な文言なので、その並外れた本質が見えなくなる危険があります。従うとは、動き出すこと、これまであった安全を後にすること、新たにされるものに向って歩くことを意味するからです - 決してひとりではなく、その方と共に、その方のうちに、その方によって。

この歩みの素晴らしさは、それが私たちを衰えさせるものではないということです。人格を薄っぺらにするものではありません。反対に、十全たる人間になる道です。自分自身をイエスに委ねるとき、敢えてイエスに自分を明け渡すとき、私たちは父親の両腕の中に身を任せる子どものようになります。私たちは自分自身を取り戻します。これまで気づかなかった、自分のうちにある、愛、試練に耐える回復力、喜び、連帯の心を発見します。

信仰の旅がゆっくりと、しかし確実に私たちに教えることはこれです。私たちが支えられていること、私たちの人間性が神の御目に尊いこと、私たちの思いをはるかに超えて、私たちは限りなく価値があること。福音を宣べ伝える使命の挑戦に立ち向う…恐れなく立ち向かう力を引き出すのは、自分たちが知られ、愛されているという、この確信からなのです。

 

III.自分はイエスの仲間であると言い表すこと - 成熟した人のアイデンティティー

「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」。 

この箇所は、この言葉のうちに最高潮に達します。これは容易に誤解される言葉なので、注意深く耳を傾けましょう。自分はイエスの仲間であると言い表すことは、政治的な行動ではありません。イデオロギーや、掲げる旗、公の場で擁護する主張などを自分のものとすることではありません。「自分は…であると言い表す」という言葉は、公の確約や、戦略的な立場を取ることを意味することもあるかもしれません。イエスが私たちに求めているのは、そのようなことではありません。

 

弟子たちが昼間、明るいなかでイエスについて語るとき、暗闇で聞いたことを屋根の上から宣言するとき、彼らは演技をしているのではありません。彼らはただ、自分たちが何者になったかを分ち合っています。彼らがイエスについて語るのは、自分たちがイエスに属しているからです。彼らが証しをするのは、その人生が、イエスのいのちに型どられたものとなったからです。

ですから、自分はイエスの仲間であると言い表すことは、自分が何者であるか、その最も深い真実に近づくことを意味します。それは、宗教的な熱狂や情緒的な社会的帰属意識ではなく、イエスとの友情を通して、祈りと委託によって自分自身を形作っていただくことによって成熟した認識です。私のアイデンティティーは、私がイエス・キリストのうちに「住まう者」であることに根ざしている、という認識です。

 

結び

「恐れてはならない」。世界が安全になったからではありません。福音を宣べ伝える使命が容易だからではありません。私たちがキリスト・イエスによって知られ、愛され、支えられているからです。私たちの髪の毛までも一本残らず数え、御父の御前で私たちを名前で呼んでくださる方が、共に歩んでくださっているのです。イエスとの友情の実りであるこの自由の恵みを、私たちが決して欠くことがないように願い、祈りましょう。

総長 ファビオ・アッタールド神父

《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》

 

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