総長メッセージ2026年9月:私たちのまなざしのピントを合わせる
総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2026年9月)
私たちのまなざしのピントを合わせる

マルコによる福音書10:46~52-盲人バルティマイの省察
生れつきの盲人バルティマイの癒しについての話は単なる奇跡の記録ではなく、まさしく使徒の条件に関わる生きたたとえ話なのです。このイエスとバルティマイとの出会いは、イエスがメシアとしてエルサレムに入る前の最後のエピソードでで、イエスの宣教活動と受難、復活とをつなぐ要の役割を果たしています。
いったん癒されると、見て、従うバルティマイは、使徒たちと対照的な輝きを放っています。彼らは目が見えていても、まだ理解していませんでした。この対照を背景に、3つの短い省察を行いたいと思います。
1.イエスがイニシャティブを取る
盲人が叫ぶ前にイエスはすでにエリコを「出て行こう」としていました(46節)。哀れな盲人の叫びがすべてを変えます。イエスは出発の準備をして、盲人の近くを通りかかります― そして「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」(49節)。神はイニシャティブを取り、道端から叫ぶ人と共にあるために行動されます。
これは神の教育学の不変の特徴です。私たちは「叫ぶ」とき、神がすでに私たちを見つけてくださっていることに気づきます。これは最初の賜物、私たちが受け取ることのできる最高の賜物かもしれません。私たちの信仰の旅路では、様々な形で抱えている「盲目性」は罪の宣告ではありません。むしろ、癒すことができる傷のようなものです。私たちがそれをイエスのもとに持って行くなら、イエスの行動は傷ついた人を癒すだけでなく、近くにいる人々の見方をも変えます。私たち自身が「盲人」であれ、あるいは盲人のそばにいる者であれ、変化を起こすのはいつもイエスの存在です。イエスは、一人ひとり皆に、それぞれの「盲目」、しばしば隠れている無関心を、明らかにします。イエスは私たち一人ひとりを変えます。視力を回復させ、共感を目覚めさせ、私たちが皆、何らかの形で「光」を必要としていることに気づくよう、招かれます。
2.盲目であることを認める謙虚さと、癒されたいと願うこと
私たちが自分に正直であることが、最初の一歩になります。バルティマイは見えませんが、声を上げることはできます。黙るように言われても、ますます大きな声で叫びます。彼が引き下がらないのは傲慢からではありません。謙虚さが本物であるとき、そのような形をとるのです。謙虚さは、人々の無関心の前で沈黙することではないからです。謙虚な人は自分に必要なものを知っていて、それを口にすることを恥じません。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(48節)。
この叫びには二つの真実があります。第一はキリストという方への信仰告白、身体の目によっては見えていないにもかかわらず、自分の前におられる方をはっきりと「見ている」人によって発せられたものです。第二は、自分のみじめさを恥じずに認めることです。自分が神の御子の前にいることをわかっているからです。
呼ばれてバルティマイは、自分の唯一の持ち物である上着を脱ぎ捨てます。呼ばれた瞬間に、彼を引き止めるものが何一つあってもいけません。これは今日の私たちにとって力強いイメージです。本当の光へと導いてくれる真の癒しのためには、私たちが安全のために、あるいはもしかすると恐れのためにしがみついているものを手放す必要があります。
ですから、バルティマイに尋ねた同じ問いかけを、イエスは今日の私たち一人ひとりに尋ねておられます。「何をしてほしいのか」(51節)。
バルティマイは必要な唯一のことを頼みます。「見ること」を願うのです。真の謙虚さは、力や表面的な満足に置き換えることなく、神のみ前で自分の貧しさに正しい名を与えることです。
3.より大きなビジョンを前にして盲目であり続ける頑なさ
最初に、気の毒なバルティマイを黙らせようとした群衆について考えてみましょう。誰が本当は「盲目」で、もしかすると「耳の聞こえない者」でさえあったのか、という問いが浮かびます。群衆はその無関心さによって、バルティマイの身体的な障害とは異なる「盲目」を表しています。視力には全く問題がないにもかかわらず、自分たちの狭いものの見方を乱されたくないと願っているのです。それは、私たちが「名づけること」も、ましてや面と向かうこともしたくないと思っている貧しさを前にするとき、今日も、私たちのうちにとどまり続けているのと同じ「盲目」です。
次のことは、おそらく今日の私たちにとって差し迫って大切な教訓です。バルティマイのそれのように、癒すことのできる盲目性があります。その一方で、頑なに光に抵抗する盲目性もあります。なぜなら、神の光は、私たちが受け入れる用意のある範囲を超えて、つねにより豊か、より自由で、常識を揺さぶるからです。
神が与えてくださる癒しは無限で無償です。その人がふさわしいかどうか、社会的地位、その声を聞いてもらう権利を有する人かどうかといった論理には従いません。まさにこの理由により、社会の片隅から叫ぶ人々 - 貧しい人々、危機にある若者たち、私たちの確立された慣習に対して不都合な問いかけで挑んでくる人々 - を黙らせようとする誘惑はつねに潜んでいます。私たちの共同体にさえも。
私たち自身のうちにあるこの頑なさを認めることは、私たちを落胆させることではなく、新たに解放へと向う旅の始まりです。バルティマイの大胆さが私たちへの賜物となりますように。彼の叫びが私たちの心のうちに「家」を見つけられますように。一度ならず何度でも、自分のまなざしが恵みによって繰り返しピントを合わせることを必要とすると知っている人々の終りなき叫びとして。その時はじめて私たちは、バルティマイのように真に「道を進まれるイエスに従う」(52節)ことができるでしょう。もはやただ単に癒された傍観者ではなく、本当に大切なことは何か、理解することを学んだ、後に従う者、真の紛うことない使徒となって。
総長 ファビオ・アッタールド神父
《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》
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