総長メッセージ2026年6月:私たちも72人の中にいますか?
総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2026年6月)
私たちも72人の中にいますか?

私たちも派遣されています。私たちの仕事場、近所、家庭、友情は、キリストが行こうとされている「町、場所」です。道を備えるために、ご自分に先駆けて私たちをそこに遣わされるのです。
ルカによる福音書第10章のはじめ(1~19節)に、イエスはご自分の宣教の使命を12使徒以外の弟子たちにも広げ、道を備えるためにご自分に先駆けて72人の弟子を送り出します。それは決定的な時です。宣教の使命はもはや小さな使徒の集団に限られたものではなく、より幅広い、普通の弟子たちにまで広げられます。その意図は明らかです。すべての弟子は、キリストをそこに現存させるために、それぞれが生きる世界のすみずみへと遣わされる宣教者なのです。
今日のキリスト教信者— 事務所や病院で働いていたり、家で子どもを育てたり、学校に勤めていたり、事業を展開したり、高齢者の世話をしたりしている人々—にとって、この聖書の箇所は、洗礼に由来する私たちの召命について直接語りかけます。私たちも派遣されているのです。私たちの仕事場、近所、家庭、友情は、キリストが行こうとされている「町、場所」です。道を備えるために、ご自分に先駆けて私たちをそこに遣わされるのです。
イエスが与えられる指示は、宗教の「専門家」だけではなく、彼の名を担うすべての人に向けられたものです。それは、あらゆる状況でキリスト者の証しがどうあるべきかを明らかにする指示です。身軽に旅をし、平和をもたらし、傷ついた人々を癒し、私たち自身の具体的な生き方を通してみ国が近づいていることを宣言します。
しばしば信仰を個人的な信条や日曜日の礼拝に限定してしまう文化において、ルカの第10章は生活全体を宣教の領域として取り戻させます。以下にあげる3つの省察は、72人に語られたイエスの言葉が、日常生活の普通の場に送られた弟子として生きることの意味に、どのように光を当てるかを掘り下げます。
1. 身軽に旅すること:自己完結の重荷から解き放たれること
「財布も袋も履物も持って行くな」。イエスは意図的に、弱い者、神と他者のもてなしに根本的に頼る者として弟子たちを遣わします。イエスの指示は、現代人の生き方の基本に当然のこととしてあるものに挑みかけます。物を所有することが安心をもたらす、自立していることに価値がある、つねにすべてを思い通りに管理しなければならないという思い込みに。
日常生活 ― 仕事、家庭内の責任、経済的な不安 ―の中で模索しながら進むキリスト者にとって、福音的清貧へのこの呼びかけは、賢明な計画や責任ある生活の管理を放棄することを意味してはいません。むしろ、より深い霊的な質問を投げかけるのです。私たちは実のところ何に信頼を置いているでしょうか。
起こりうるあらゆる事柄に対処する自分たちの能力を信頼するようにと教える文化の中に、私たちは暮らしています。ますます大きくなる「財布」をつくりながら、認定書、資格、縁故を積み上げています。そして、自己完結の幻影を保ち続けようとして疲れ切っています。
イエスの指導は私たちをこの重荷から解放します。身軽に旅することは、神のみ摂理、信じる者の共同体、自分たちではつくり出せない神の恵みに、私たちが根本的に依存していることを認めることを意味しています。答えがわからないとき、助けが必要なとき、入念に準備した計画がつぶれるとき、それを進んで認め、神が別の道を与えてくださると信頼することを意味します。
具体的には次のことを意味します:私たちは完璧ではないこと、完璧なイメージを保とうとすることは結局、私たちを縛ってしまうと認めること。私たちの葛藤について子どもたちの前で正直であること、貯め込むことよりも簡素な生き方を、生産性よりも共にあること、不安ではなく信頼を選ぶことを意味します。
私たちは、すべてわかっているかのようなキリスト者になるよう呼ばれているのではありません。キリストが私たちを満たしてくださること、キリストの恵みで本当に十分であること、神に頼ることは真の自由であることを発見するように私たちは招かれています。
2. 何よりもまず平和:分断された世界で共に在ること
「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」。あらゆる活動や生産性の前に、何よりもまず平和があるべきです。私たちは断片的な生き方をしています。数え切れないことを同時に扱い、会話している間も意識は別のところにあります。イエスは平和をもたらすように私たちを送り出します。気をつけてください ― それは、すべてをコントロールできているという幻影から生れる平和ではなく、たとえ混沌の中にあっても、私たちが神に支えられていると知ることからくる、真の深い平和です。
この平和は、この世の文化に対抗する証しです。同僚が重圧に悩むなか、私たちが現実から目をそらすことによってではなく、信頼によって堅固であるとき、それは表れます。町の人々が不安に突き落とされているとき、私たちが世間知らずのゆえではなく、希望によって落ち着いた態度で共に在るとき、それは表れます。
あなたが入って行く日々の「家」について考えてみてください。仕事場、自分の家庭、ジム、子どもたちの学校、近所などです。平和をもたらすとは、次のようなことを意味するかもしれません。仕事場の噂話に加わることなく、人について敬意をもって話すこと、人々が自由に息ができ、沈黙のための場もあるような、家庭的雰囲気をつくること、裁くことなく耳を傾ける隣人でいること。
このような平和は、苦闘している人々と分ち合うとき、とりわけ力強く意味深いものとなります。どれだけの人々が目に見えない重荷をかかえていることでしょうか。精神的病との闘い、経済的不安、人間関係の危機、生きることへの絶望。彼らは解決策を求めているのではありません。動揺することなく、痛みのなかで共にいてくれる人を必要としているのです。混沌の下に堅固な地盤があることを示唆するような平和を輝かせる人です。
キリスト者としての証しは、まず私たちが何者であるかを証しすることです。私たちは、この世が与えることも取り去ることもできない平和を見つけた者なのです。
3.癒し、福音を告げること:神の国を目に見えるようにすること
「その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」。言葉と行動は切り離すことができません。それは、私たちの周囲の傷ついた人々に気づき、共感を表す具体的な行動で応えることを意味します。誰かが抱えている空虚さと無意味さの感覚、冷酷な競争の現実、人が味わっている燃え尽き感を受けとめ、裁かずに耳を傾けることのできる存在として、自分を贈り物としながら。孤独を感じている人々、特に高齢者の側にいること、ささやかな何気ないものでありながら、苦しむ心に温かな印象を残す行いによって。
人々が、「ここで何か違うものと出会いました。温かく迎えられ、価値を認められ、癒されました」と言えるようなとき、神の国は近づいています。
このように初代教会は育って行ったのです。主として雄弁な説教を通してではなく、ほかにはない生き方をしていたため、人々が思わず次のように聞かずにはいられない、共同体を通じてです。「私たちが持っていない何を持っているのですか。どうしてそのように愛するのですか。その希望はどこから来るのですか」。
私たちの生き方は福音を告げるものになります。人々が尋ねるとき、私たちにはその源の名を告げる準備ができています。「神の国はあなた方の近くに来ています。あなた方が経験した愛は、ただ私たちから来るのではありません。それはキリストから来るのです。すべてを新たにし、この新たな世界にあなた方を招くあの方から」。
総長 ファビオ・アッタールド神父
《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》
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