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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ2026年4月:エマオを通ってエルサレムへ


総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2026年4月)

エマオを通ってエルサレムへ

 

ROSENBERG, GERMANY – MAY 06, 2014: Supper at Emmaus, detail of high altar by Sieger Koder in Church of Our Lady of Sorrows in Rosenberg, Germany

 

 

 

 

 

失われた希望、愛を通して見いだされた信仰

 

2人の弟子の物語は、霊的な盲目から復活した方を認めることへ、その変化の経験だと言うことができます。今日の私たちに大切なことを語る、3つの「動き」についてお話しします。

 

  • 間的な理解にとどまるなら座礁して動けなくなる

エマオへ向かう弟子たちの姿は、単なる人間的な解釈の限界を表します。彼らは起こったこと -十字架刑、墓が空だったという噂 - は知っていましたが、それはただ情報に過ぎませんでした。そうしたことが表すのは、ただ「墓」、「失敗」、「行き詰まり」でした。「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(ルカ24:21)。すべては過去のことになりました。希望はすでに死んでいました。

この思いは私たちの時代に強い共鳴を呼び覚まします。私たちは様々な情報に取り囲まれていますが、しばしば無意味さのうちに行き詰まっています。次々と伝えられるニュース、傷つく人々、今の時代の矛盾 -人間的な分析だけでそれらを読み取るなら、絶望へと至ってしまいます。弟子たちの会話は私たち自身の会話を写し出します:無意味な事実の数々は、光となるよりも重荷になります。彼らの思いは彼ら自身の人間的カテゴリーの箱に閉じ込められてしまい、それだけでは復活へと境界を超えて行くことができないのです。

私たちはどれだけ信仰を、理性によって、社会的分析、組織的な問題の解決によってのみ「わかろう」としているでしょうか。それでは神無しの努力、霊的酸素を奪う努力になってしまいます。

 

  • 道連れとしてのイエス:預言の広がり

印象的なのは、彼らと共に歩みながらイエスがすぐにご自分の正体を現さなかったことです。その代りに、イエスはまず耳を傾け(どうしてこれらすべてのことについて話しているのですか)、それから教えます。彼らの痛みを軽んじることなく、根気強く教えながら応じます。「モーセとすべての予言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:27)。

彼らがそれを必要としているにせよ、イエスは理解することを強制しません。理解を広げるよう弟子たちを招くのです。迷路から彼らを優しく導き出します。弟子たちの思考、彼らが想像していた救い主像はすべて、聖書を通じて広げられ、深められます。預言者たちのメッセージは死んだものではなく、生きた言葉です。

とても美しく感じるのは、彼らが注意深く聴いていたとき、教えているのがイエスだと気づかなかったという点です。気づきは後に来ます。まだ揺れ動く希望を抱えながら、彼らは大切な道連れを宿に招きました(パンを裂くために)。

ここに今日の私たちへの素晴らしい教訓があります。たとえそれが、尊い、差し迫ったことであるにせよ、福音を宣べ伝えることは教義を伝えることだけではないのです。人々が自分の生き方、問いかけ、希望をイエスのメッセージのより豊かな理解のうちに眺めるよう、落ち着きと忍耐強さをもって助ける必要があるのです。この傾聴のためには共同体が必要であり、それは交わりによって育まれます。それは真の理解、すなわち「心の目」が開かれる瞬間に向う歩みです。

  • パンを裂くときに主と出会うこと – 見ることなく開かれた目

この逆説は見事です。「すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24:31)。彼らは実に、イエスを見ることによってではなく、もてなしと交わりの仕草のうちに、それがイエスだと気づいたのです。

これは大変意味の深いポイントです。聖体祭儀は単に思い起こす儀式ではなく、キリストがご自身を与え分ち合うことを通して現存される、進行中の出来事です。2人の弟子の「今」は、目に見える証拠を絶えず必要とはしません。彼らはより深い何かを経験したのです。キリストの自己贈与にあずかったのです。

上記の3つの小さな歩みをふまえ、私たちの道のための光を分ち合いたいと思います。

 

  • 目先のことや外見にとらわれる信仰から脱すること。

今日でも私たちは、同様の打算的なメンタリティーに影響され、イエスへの信仰を生きる危険があります。見たいし、確信したい。受け入れるけれど、それにはいくつかの条件がある、と。

エマオへの道連れであるイエスは、それとは違う、別の道へ私たちを招きます。それは近しさをもって始まり、傾聴によって豊かにされ、交わりへと導く道です。忍耐と愛の刻まれた道です。私たちを自らの囚われ人とする恐れと自己防衛の構造を徐々に取り除くよう、イエスは私たちに求めます。

教えを通じて私たちが発見するこのイエスは、もっと先に行くよう私たちを促します。イエスの自己贈与の模範に分け入り、自らのものとするようにと。十字架に至るまで自らを捧げたご自身を模範として差し出しながら、偽りのイメージを捨て、あらゆる種類の依存の罠を避けるよう私たちに求めます。死に、復活されたイエスに目をとめながら、私たちは、恐れることなく自らの「牢獄」を認め、勇気をもってそれに打ち勝つのです。

  • 信仰の真の経験は、心を開いて相手を迎える姿勢によって認められる。

2人の弟子たちはイエスの言葉に抵抗することもできました。しかし、彼らはそうしませんでした。投げかけられた問いを受けとめたのです。彼らがすべての希望を、おそらく信仰をも失っていたことを思い出しましょう。しかし、彼らは、温かく迎えること、相手に開かれた心は失っていませんでした。まだ愛を生きることのできる弟子だったのです!

ここで、そしてこの時はじめて、転機が訪れます。弟子たちはイエスを宿に迎えることで、イエスだと気づいたのです。イエスを迎えた弟子たちに、イエスはすべてを、ご自身のすべてを差し出しました。彼らはイエスに「共に」留まるように願いました。それに対しイエスは、「彼らのうちに」留まることで、彼らに報いたのです!

 

  • 頂点、そして始まりとしての聖体

パンを裂くことは物語の終りではありません。むしろ彼らの本当の物語の始まりです。日が暮れようとしていましたが、2人の弟子は直ちにエルサレムに、証しをするために共同体に戻ります。外の闇にはもはや、信じる者の心を満たす光に打ち勝つ力はありません。聖体の真の力は、私たちを外へ、他者へ、高みへ向って出向いて行かせるものです。

これは希望によって支えられ、愛によって生き抜かれる、キリストを信じることの素晴らしさです!


総長 ファビオ・アッタールド神父

《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》

 

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