総長メッセージ2026年3月:慈しみへと教え導くこと
総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2026年3月)
慈しみへと教え導くこと
ファリサイ派の人と徴税人のたとえ(ルカ18:9~34)は私たち教育者と福音宣教者にとって、単なる傲慢と謙虚さについての道徳的な話ではなく、神がどのように私たちと出会うのか、そしてこの変化をもたらす体験を伝えるよう私たちがどのように呼ばれているかについての深い啓示なのです。
神殿に上るとき、ファリサイ派の人は自分の好みに合わせた神のイメージを抱いて行きます。功績と過失を記録し、義人に報い罪人を非難する神です。ファリサイ派の人の祈りは他者との比較です。「私は他の人たちのようでないことを感謝します」。ここでは本来の関係が失われています。そこには自己満足しかありません。
反対に、徴税人は自分が無価値であることを自覚して神殿に入ります。彼の「神様、罪人の私を憐れんでください」という言葉は絶望ではなく、慈しみに基づいているからこそ可能な関わりに、勇気をもって開かれている心の表れです。彼は、ファリサイ派の人には欠けているものを感じ取っています。神は裁判官ではなく、遠く離れてしまった子どもが帰って来るのを待つ父親であること。私たち教育者にとって、この区別は基本となるものです。無意識のうちに、私たちは何度ファリサイ派の人のそれに近い神のイメージを伝えていることでしょう。観察し、評価し、私たちの「霊的パフォーマンス」に基づいて報いたり、罰したりする神です。
信仰の教育は慈しみとの出会いを促します。それは、愛される子どもであるからこそ、弱さにおいてさえ、自分が愛されていることを見出す経験です。福音宣教は、人々をこの慈しみ深い関係へと招くことを意味します。神は、私たちが完璧になるのを待って私たちを愛されるのではなく、私たちの貧しさにおいてこそご自身の愛の豊かさを明らかに示されるのです。これこそが私たちが告げ知らせるべきよき知らせです。内側から私たちを変える関係性です。
心の謙虚さから始まる関わり
徴税人の謙虚さは神との出会いを可能にする条件です。「遠くに」立って、「目を天に上げようともしない」ことは、彼が神の聖性と自らのみじめさの無限の不釣り合いを認め、それでもこの聖なる神が、自分の足りなさをわきまえる人に身をかがめてくださると信頼もしていることを示します。それとは対照的に、ファリサイ派の人の祈りは「私」でいっぱいです。「私は断食します」、「私は全収入の十分の一を献げています」。彼は自分の宗教的アイデンティティーを、自己肯定、他者との比較、自分の行いの誇示によって築き上げています。彼は自分がすでに満たされた、成功した、義にかなった人間だと感じています。
教育と福音宣教の領野で、心の謙虚さとは、人がつねに救いを必要としていることを認め、神との関わりを当然のことのように軽んじることなく、神のお恵みを受けることに開かれているという能力です。謙虚さは、キリスト者の生き方が一度で完全に手に入れられるものではなく、神の慈しみによって形作られてゆく日々の歩みであると知る人の姿勢です。教育者として、私たちは自分たちの限界、弱さ、絶えず回心を必要としていることを認めながら、率先してこの謙虚さを証しするように招かれています。こうすることではじめて、私たちは信頼される者になり、また、人々が仮面を取り去り、ありのままの自分で神に近づく場をつくることができるのです。
愛され赦された罪人であること
たとえ話の結びは驚くべきものです。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。自分のみじめさのほか何も献げるものがなかった徴税人は、すべてを受け取ります。見せびらかすものをたくさん持っていたファリサイ派の人は、不毛な幻影の中にとどまります。神が義とするのは自らを正しいと見なす人々ではなく、自らを罪人と認める人々です。神はいっぱいに持っている人ではなく、空っぽの人を満たします。そして何らかの必要性を何も感じない人ではなく、癒しを懇願する人と出会います。福音の逆説はこれです。私たちが救われたのは、私たちが罪びとであるにもかかわらず、神の慈しみのほうがそれにまさって大きいからなのです。
今日の信仰教育において、このたとえ話は、私たちが罪を認めるとき、私たち自身を変えてくださる神の恵みに心を開くとき、罪が私たちを押しつぶすことはないと、教えてくれます。
愛され赦されている罪人であることは、劣っている状態ではありません。キリスト者本来の姿です。完璧であるふりをせず、失敗を隠さず、世間体のために外見を良く見せることをせず、自由に生きることができるのは、このアイデンティティーのおかげです。それは、私たちの人生の基礎が私たちの行ったことではなく、神が私たちのためにしてくださったこと、そしてこれからもし続けてくださることにあるという意識です。
自分の経験した神の慈しみを証しする
義とされて家に帰った徴税人は、必然的に証し人となります。迎え入れられ、赦され、高められた経験について、彼は黙っていることができません。彼の生き方が、彼を変えた慈しみについて語るでしょう。まさにここで、真の福音宣教が行われるのです。私たちは神の慈しみについて抽象的な理論を告げるのではなく、自らの体験を証しします。自分たちが受けた赦し、私たちを探し求め見つけてくださった愛、私たちの存在に意味をもたらした〔神との〕関わりについて私たちは語ります。
教育と福音宣教の領野で働く私たちにとって、これが意味するのは何よりもまず、個人の霊的生活を慈しみの生きた経験として深め大切にしてゆくことです。「師」- 先生である前に、私たちは弟子であるべきです。教える前に学ばねばなりません。与える前に受け取らねばなりません。私たちのメッセージの信頼度は、私たちの経験の真正さによって量られます。さらに、人々が同じことを体験できる教育の場をつくり出すことを意味します。裁かれるのではなく歓迎される場、優れたところを示さなくてはいけない場でなく、弱さを認めることのできる場、宗教的儀礼を習得する組織ではなく、神の優しさを経験する共同体です。
信仰教育は本質的にある関わりへ導くものであることを、ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話は思い起させます ― 慈しみ深い愛で私たちを愛し、いつも私たちを待っていてくださり、いつも赦し、私たちの貧しさを、ご自分と私たちの出会いの場としてくださる神との関わりです。
総長 ファビオ・アッタールド神父
《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》
■同じメッセージの各国語版はサレジオ会総本部サイト内の以下のリンクからお読みいただけます。どうぞご利用ください。
〇英語

