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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ2025年12月:クリスマスの岩屋―天が地上と出会うところ


総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2025年12月)

クリスマスの岩屋―天が地上と出会うところ

 





クリスマスの神秘は「愛の物議」と共に始まります。ご自身を小さき者にする大いなる御方。それは詩的イメージではなく、人類の歴史における最も衝撃的な現実です。

無限の方である神が、限りある者になることを選びます。全能の方が、話すことも、歩くことも、ご自身を守ることもまだできない新生児の弱さを選びます。それは明らかにされた純粋な無償性、代償を何も求めない贈り物で、近づくためにいかなる条件も押し付けません。

 

1. 無償性に気づくこと:神が条件なしに来られる

ベツレヘムの岩屋は想像できるかぎり最も慎ましい人類の交差点です。そこは宮殿でも、壮大な神殿でも、人が住むのにふさわしい家でさえありません。そこは洞窟、動物たちの避難場所、寒さがしみわたり、土とわらのにおいがします。ここには、入ろうとする者を止める柵はなく、招待状も、特別な服装もいりません。扉はすべての人に開かれています。擦り切れた外套の羊飼いたち、貧しい人々、疎外された人々、傷つけられた人間性以外に何も持たない人々。

聖パウロは、幾世紀も超えて語りつづける言葉で私たちに思い起こさせます―「僕の身分になられた」(フィリピの信徒への手紙2:7)。宇宙の創造主はご自身の栄光を棄て去り、奴隷の身分となるために神としての特権を放棄されます。神は、征服者として、あるいは責任を追及する厳しい裁判官として来られるのではありません。仕える方、ご自身を後回しにする方、歩くことを教える前からその足を洗う方として来られるのです。

この無償性は、私たちに大きな挑戦を投げかけます。すべてのものに値段が付けられ、すべての人間関係が相互利益に基づいているように見え、愛そのものがしばしば条件付きになる世界で、クリスマスは、完全に無償の贈り物があることを私たちに思い出させます。この無償性に気づくことは、私たちに功徳がなくても愛されていること、まだ遠くにいる時に探し求められていること、自分は無価値だと感じている時に望まれていることを受け入れることを意味します。

 

2. 近しさの理解:神が私たちの歴史に入って来られる

クリスマスが促す2番目の姿勢は、徹底的な近しさです。神は無関心な傍観者として、遠くから人間の歴史を眺めておられるのではありません。神は、ありのままの人々、不完全で矛盾をかかえた、弱い人たちの登場する歴史に入って来られます。聖ヨセフは疑いに悩み、マリアは恐れを抱き、羊飼いたちは社会的に疎外され、東方の博士たちは落ち着かない探求心を抱えています。

暗い隅や影のある私たちの個人的歴史は、神の歴史の一部です。私たちは部外者でも、招かれざる客人でもありません。私たちは神が決して拒絶することのない家族の一員、息子、娘です。神がご自分の造られたものをさげすむことはなく、嫌悪や失望を抱いて被造物を眺めたりなさらないと、クリスマスは私たちに教えます。それどころか、神は造られた者をその具体的な在り様のまま、正真正銘の人間性において抱擁してくださいます。

私たち一人ひとりは独自の個性、繰り返されることのない歴史を持っています。活気に満ちた人もいれば、遠慮がちな人もいます。強い人と弱い人、開いた傷をもつ人、隠された傷跡のある人がいます。神は、私たちがいたいと願う所でも、私たちがいるべきだと思う所でもなく、まさに今いる所で私たちと出会ってくださいます。神は、アルコール中毒者とは彼のバーで、囚人とは刑務所で、疲れ切った母親とは台所で、学生とは孤独の中で、年老いた人とは沈黙のうちに出会うのです。

しかし、この近しさは静的なものでも、あきらめでもありません。神は、私たちをいるべき場所へと導くために、今いるところで出会ってくださいます。けれども私たちは、自分の努力や功徳によってそれにふさわしくなるわけではありません。むしろ、私たちは神の愛された子どもなので、ふさわしいのです。私たちは、満ち足りた人生、深い喜び、回復された尊厳、癒された人間関係にふさわしい者です。神の近しさはダイナミックです。それは、再び起き上がるようにと招く差し伸べられた手、「近くにいらっしゃい」とささやく声、明るい地平線に向って私たちの傍らで共に歩んでくださる存在です。

 

3. 迎え入れることを選ぶこと:真理は自由の扉をノックする

ここに、促される3番目の行動、おそらく最も繊細さを要するものがあります。迎え入れることです。私たちの人生は岩屋で展開します。これは誇張した表現ではなく、私たちの存在の新奥の真理です。あの岩屋は、すべての「内なる岩屋」、私たちがどのような者になりたいかを決める、心の隠れた場所のイメージです。

真理‐抽象的な概念ではなく一人の方、まぶねの幼な子‐は、私たちの自由の扉をノックします。それは目立たず、優しく、決して乱暴なノックではありません。神は扉を打ち破ることもできました。全能の力ですべてをご自分の思い通りにすることもできました。その代りに神は人に乞うことを選びます。神である方が人類の物乞いになります。何と驚くべき逆説でしょう。すべてのものを創造なさった方が、被造物である私たちに、ご自分のための場所を設けるよう願われるのです。

真理は呼びかけ、自由が応えるのを待っています。強制もなく、巧妙な操作もありません。毎日、毎瞬間、新たにされるただ一つの招きがあるだけです、「私を迎えてくれますか」と。決断をしなければならないのは、脆くも力強くもある人間の自由です。私たちは扉を閉めることができます。聞こえないふりをし、決断を明日に先送りすることもできます。または、扉を開くことができます。

迎え入れることを選ぶ、それは私たちの極度の貧しさを認めることです。ちょうどあの岩屋が満たされる準備のできた空の場所だったように、私たちも自分の思い込み、自己満足、偶像を捨て、空にならなければなりません。迎えるためには、内面に空間がなければなりません。私たちは、もしも心がすでに自分自身でいっぱいになっていれば、神を迎え入れることはできないのです。

しかし、私たちがあの扉を開くことを選ぶ時、「はい」と言う時、奇跡が起こります。貧しい岩屋は、光のカテドラルとなります。私たちの普通の生活は、神の現存の場となります。私たちの弱さは、恵みが働きかけることのできる場となります。迎え入れることは、私たちを変えるのです。私たちを訪れるために来られる「いのち」を迎えたなら、私たちはもはや以前と同じではありません。

ですからクリスマスは、私たちが全面的にたずさわる三つの行いです。ご自身を小さい者とされる、「物議をかもす」神の無償の愛を認めること、私たちの具体的な歴史に入って来られる方の近しさを理解すること、私たちの心の扉をノックする真理を歓迎し、扉を開くことを選ぶこと。決定的な決断は、ベツレヘムの岩屋、そして私たちの心の岩屋でなされるのです。すべてのクリスマスは、古くもつねに新しい問いかけに新たに答える機会です。「あの方のための場所はありますか」。

総長 ファビオ・アッタールド神父

《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》

 

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