総長メッセージ6月:弱さを超えて教育すること
総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2025年6月)
弱さを超えて教育すること
イエスとペトロの出会いは、福音宣教者また教育者としての私たちの使命を特別な光で照らし、描き出します。
ヨハネによる福音書の最終章である21章に、イエスとペトロの出会いが語られています。私たちは3つの問いと命令からなる対話を読みます(ヨハネ21:15-23)。福音宣教者、教育者としての私たちの使命に特別な光を投げかけるこの出会いについてお話ししたいと思います。これはペトロの生涯にとっても、生れようとする教会の使命にとっても、大事な瞬間となった出来事を表す箇所です。サレジオの使命に従事する私たちにとっても、教育上、司牧上豊かな意味を持っています。
ご復活の後、イエスはガリラヤ湖で弟子たちに現れ、彼らと食事を共にしてから、シモン・ペトロに続けて3回、問いかけます。ご自身とペトロとの関係に直接触れる問いかけです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。はじめの2つの質問でイエスが求めるのは、報いを求めない要求の高い愛です。ペトロに2回向けられるこの問いは、要求の高い、挑戦を投げかけるものです。ペトロはイエスを裏切ってしまったことから、自分の弱さに気づいています。このため、彼の2回の答えは、愛していることを証ししますが、より人間的、つまりもろい愛を表す言葉になっています。この2つの答えに対して、イエスはそれでもご自分の群れの世話をペトロに任せるのです。
ペトロを窮地に追い込むのは3番目の質問です。イエスはペトロに対して、まさに彼に可能な愛、弱く、もろく、限界のある人間の愛を生きる覚悟があるか、問うのです。イエスはペトロを「高邁な」愛へと招いていると言えますが、彼にとって不可能で勇気をくじかれるような状況には追い込もうとしません。
一方、ペトロは、自分の愛が弱いこと、同時に、自分があきらめないよう、イエスができるかぎりのことをして助けてくださることに気づきます。彼は誠実でありたい、イエスのそばにいたいと望んでいます。3つめの問いに対する彼の答えは、彼の心が、傷ついてはいても、どれだけイエスのみ手のうちに全くありたいと願っているかを証しします。「主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることをわかっておられます」(ヨハネ21:17)。
ここで私たちは、この3度にわたるやりとりの対話が、ご受難の前のペトロによる3度の否認を思い出させ、乗り越えさせるものにとどまらないことを発見します。私たちが気づくのは、真実の愛に基づく道を開く対話の手本です。それは和解を促し、自らと他者のために成長と責任ある生き方を育む愛です。イエスとペトロの間のこの対話が、霊的・人間的教育の模範となっていることを私たちは垣間見ることができるのです。
子どもや青少年の成長と人間的成熟に寄り添う私たちにとって有益な考察を、取り上げてみましょう。
真の愛は決してなくなることのない信頼の上に築かれる
裏切りのあとで、イエスはペトロを許したばかりか、さらに、より重大な責任をペトロにゆだねます。これは私たちにとって、特別な教育上の教訓となります。信頼を示すことは、その人を尊重していることを新たに確証します。それは、相手に尊厳と責任を授ける愛です。イエスは許すにとどまらず、新たな理解によって豊かにされた使命をペトロに与え直したのです。
一人ひとりの時と歩みに対する敬意
イエスによって予告されたペトロの裏切りに対して、よくある「だから言ったじゃないか」という反応はありません。イエスは裏切りを「目にします」が、さらにその先を「見て」います。イエスの愛は、人間の弱さを知る愛ですが、傷ついた心の中の善の種をかき立てる力を持っています。そしてこの種は決して消えることがありません。ドン・ボスコが「すべての少年の心にある善の部分」と呼んだものをイエスが見出し、それが現れるためにできることを何でも行うのを、私たちはこの場面に見ます。起ってしまった悪は、決して結びの言葉になってはいけません。最後の言葉は、ただ愛、よき羊飼いの慈愛から発せられるものでなければなりません。
これが意味するのは、正しい忍耐をもって、その時を尊重し、待つことです。起ってしまった悪は、とりわけ子どもや若い人々が関わるとき、愛情、忍耐、哀れみをもって扱われるべきだと、経験はたびたび教えてくれます。ドン・ボスコは予防教育法について語るとき、このことを上手に説明しています。子どもや若者たちは、自分たちが、成熟した大人の愛、助けてくれるけれど責めない。耳を傾けるが命令しないその愛に取り囲まれていると感じる時、その子のうちに、隠れているけれども必ずある善意が、善へと向かうのです。その愛は、しばしば忘れられてしまったか、体験したり、身にふりかかったりした否定的なできごとによって埋没してしまった善意の驚くべき発露を引き起こす踏み切り台となります。
今この時代、私たちの子どもや若者たちは、健全で成熟した、忍耐強い、長い目で物事を見ることのできる大人、親、教育者をどれほど差し迫って見いださなければならないことでしょう。弱さと同時に潜在能力をもった一人ひとりの、その人らしさを尊重するような過程こそが、歩むべき本来の道です。徐々に、しかし着実に成長する場として時間を捉えるとき、私たちは真の支援者となります。これは人々を定形の箱に押し込めるような画一的モデルを提示したり、もっとひどい場合は押し付けたりすることを避ける姿勢です。
比較すること、競争する誘惑
イエスとペトロの出会いについて語るこの箇所の終りのほうに、もう一つ取り上げたいことがあります。ペトロはヨハネについてイエスに尋ねます。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。イエスは、いわば話を切り上げるかのように答えます。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」。
にべもない返事で、ペトロにとってはよい教訓です。つまりイエスは、他の人々に関する好奇心だけで意味のない問いかけはせずに自分自身の成長に集中するよう、ペトロを促すのです。この「素っ気ない」答えは私たちにも向けられます。責任を担うこと、責任を担えるよう他の人を助けるということは、境界線を明確にすることも意味します。成長の歩みが道をそれることがないように。他人と比較したり、競ったりすることは危険で有害です。真の教育の歩みは個人の成長を尊重するもので、競争ではありません。その人の注意を自分自身にではなく他人に向けさせることは、その人本来の歩みへの関心をそらしてしまいます。
結論:未来を生む愛の絆としての教育
聖書の記述は「私に従いなさい」という招きで頂点に達します。この言葉にはキリスト教の教育プロセスの本質が込められています。一人ひとりの弟子としての歩み、師との直接の絆です。真の教育は概念を伝えることではなく、生き生きとした関わりに導き入れることです。
3度にわたる「私を愛しているか」という言葉は、愛こそが、すべての真の教育的絆の基礎だということを明らかにします。教える者が教わる生徒を本当に愛し、生徒が愛をもってそれに応えるときにはじめて、個人が十全に成長できる自由と信頼の場が作られるのです。キリスト教の教育、サレジオ的経験は、聖書のこの逸話のうちに、崇高な模範を、すなわち愛、ゆるし、信頼、自由の尊重に根差す変容のプロセスを見出すのです。
総長 ファビオ・アッタールド神父
《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》
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