副総長メッセージ1月: 時間は何と素晴らしい贈り物なのでしょう!
副総長メッセージ(Bollettino Salesiano 2025年1月)
時間は何と素晴らしい贈り物なのでしょう!
私たちの典礼では、新年の始まりは、いにしえの祝福によって照らされます。イスラエルの祭司たちはそのいにしえの祝福で民を祝福していました。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。神が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。
親愛なる友人、『ボレッティーノ・サレジアーノ』の読者である皆さん、私たちは年のはじめにいます。これからやって来る時のために、互いに心からの挨拶を交わしましょう。時間こそは、これから繰り広げられる私たちの人生で、ほかのすべての贈り物を包み込む贈り物だからです。
互いのためのこの祝福の願いを、それを照らすもので満たしてゆきましょう。ドン・ボスコの言葉を聞きましょう。キエリの神学院に着いた時、今も中庭の壁にある日時計のところで立ち止まると、こう言いました。「日時計に目を止めて、私はそこに記されている言葉を読んだ。『Afflictis lentae, céleres gaudentibus horae 快活であるなら、時は飛ぶように過ぎてゆく。そうでないと、時は延々と進むことになる』。そうだ、と私は友人に言った。『これが私たちの取り決めだ。いつも快活でいれば、時はすぐに過ぎるだろう』」(メモリエ・ビオグラフィケ I, 374)
今年のはじめによりよく生きるために私たちが交わす最初の願いは、ドン・ボスコが思い出させてくれます。「よく生きなさい。穏やかに生きなさい。その落ち着いた気持ちが周りにいる人に伝わるように。時は別な価値を持つようになる。時間のあらゆる瞬間は宝だ。しかし急いで過ぎてゆく宝だ」と。ドン・ボスコは好んで次のように言っていました。「人間の三つの敵は(不意に来る)死、(逃げ去る)時間、(罠にかけようとする)悪魔だ」。(メモリエ・ビオグラフィケ V, 926)。
「覚えておきなさい。幸福は、嵐のない空、事故のない道、疲れることのない仕事、失望のない人間関係ではない」と古い言い伝えは教えています。「幸せは、成功を祝うことだけではない。失敗からも教訓を学ぶことだ。幸せは、苦労、誤解、危機の時期があっても、生きて行くことには価値があると認めることだ。そして毎朝、人生の奇跡を神に感謝することだ」。
ある賢者が書斎に大きな振り子時計を置いていました。その時計は毎時間、厳かにゆっくりと時報を鳴らしましたが、ガタガタとひどい音も出しました。
「気にさわらないのですか」と教え子が尋ねました。
「いや」と賢者は答えました。「おかげで毎時間、私は自問せざるを得ない。たった今過ぎた一時間に、自分は何をしただろう、と」。
時間は補充できない唯一の資源です。信じられない速度で費やされてしまいます。その時間は二度と戻らないと、私たちにはわかっています。だからこそ、私たちにできる善きこと、愛、善意、親切は今、差し出さなければなりません。この地上には二度と戻れないからです。後悔のベールに絶えず心を覆われる私たちは、このように尋ねられるだろうと感じています。「私があなたに贈った時間を活かして何をしましたか?」
私たちの希望、その名はイエス
始まったばかりの新しい年、カレンダーの日付や数字は取り決められたしるし、時間を計るために考え出されたしるしや数字です。古い年から新しい年へと移り変わるとき、ほんのわずかなことしか変わりません。それでも、終る年を感じ取るとき、私たちにいつも振り返らずにはいられません。どれだけ愛したでしょうか。どれだけ失ったでしょうか。自分はどれだけ良い人になったでしょうか。あるいはどれだけ悪くなったでしょうか。過ぎてゆく時間によって、私たちは変わらずにはいられないのです。
新しい年の夜明け、典礼は独自の方法で、私たちを振り返らせます。ヨハネによる福音のはじめの言葉によってそうさせます。難しく思われる言葉ですが、実際はいのちの深さを表しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光に勝たなかった」(ヨハネ1:1-5)。私たち一人ひとりの人生の深みで、私たちより大いなるみ言葉がこだましています。それこそが、私たちが、世界が、すべてのものが存在する理由です。この言葉、このみ言葉は神ご自身、御子、イエスです。私たちがつくられた理由に与えられた御名はイエスです。
彼こそが、あらゆるものが存在する理由であり、その方によって私たちは存在するすべてのものを理解できるのです。私たちの人生は、歴史や歴史上の出来事、そのもののとらえ方に照らして評価されるべきではありません。私たちの人生は、自分自身、自分の体験のみを眺めて判断できるものではありません。私たちの人生はイエスに近づくことによってのみ、理解できるのです。私たちに起った、矛盾や不公平だと思えることさえも、すべてはイエスのうちに意義を帯び、意味をもつようになるのです。イエスを見つめることによって、私たち自身のことを理解できるのです。詩編がこれを巧みに表しています。「あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩編36:10)。
これは神のみ心にしたがって「時」を見る仕方で、このようにして私たちは新しい時を生きたいと願います。
新しい年は私たち皆、サレジオ家族、サレジオ会に、大事な行事とニュースをもたらすでしょう。すべては教会が祝っている聖年の贈り物です。
私たちの人生における神の存在である希望によって、私たちが聖年の精神に身を委ねることができますように。
新しい年の最初の月である1月は、ドン・ボスコの祝日へと続くサレジオ的な祭事で飾られています。新しい年をこのように始められる恵み深い計らいを神に感謝しましょう。それでは締めくくりはドン・ボスコに委ね、2025年がよい年になるように、この言葉を心に留めましょう。「私の子どもたち、時間を大事に守りなさい。そうすれば、時間はいつまでもあなたたちを守ってくれるでしょう」。(メモリエ・ビオグラフィケXVIII 482, 864)
副総長 ステファノ・マルトリオ神父
《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》
■同じメッセージの各国語版はサレジオ会総本部サイト内の以下のリンクからお読みいただけます。どうぞご利用ください。
〇英語