ページのトップへ

サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

南スーダン アコトゥ医師、李神父の足跡に従って


 

20f470fff63d5a3af8846bd8cab92312_XL 

(ANS – 2018年1月30日 韓国・釜山)
http://www.infoans.org/en/sections/interviews/item/4790-korea-dr-thomas-taban-akot-a-doctor-on-the-footsteps-of-fr-lee-tae-suk

 南スーダン・トンジのドン・ボスコ校同窓生、トマス・タバン・アコトゥさんは、韓国・釜山のインジェ大学医学部の留学生。医学部を卒業し、韓国の医師国家試験に合格した。医師を目指した道のり、そして人間としての歩みの礎となったのは、医師でサレジオ会員であった故ヨハネ李神父(1962-2010)との出会いだ。

──トマスさんの出身の町、南スーダンのトンジは長く続く内戦と多くの犠牲者が出た悲劇によって知られるようになりました。そのことをどう感じていますか。

 内戦は何十年も続きました。多くの人が家を失ったり難民になったりしました。多くの人が病気になりながら医療を受けることができませんでした。私は自問しました。「これほど苦しむ人たちのために自分は何ができるだろう?」学校に行っていたとき私は科学に興味がありましたが、結論として医者になることにしました!(笑)

──トンジでは今も生活に必要な社会基盤のない状態が続いていますね。

 はい、今もきちんとした病院がありません。最新の医療機器があるのは首都のジュバだけです。昨年の2月、父が亡くなりましたが(胃がんのため)、私は帰ることができず、医者として父を助けることもできませんでした。本当に情けなく感じ、ただ泣くだけでした。しかし、母や家族、親戚のことを考えていて、自分を信じてくれているたくさんの人をがっかりさせてはいけないと、もう一度立ち上がる力をもらいました。

──どのような経緯で、韓国で医学を学ぶことになったのですか。

 私は幸運でした。亡くなったサレジオ会員のヨハネ李神父が私を推薦してくれたんです。2009年のクリスマスのころ、韓国で医学の勉強をしないかと、一人の医師から電話がありました。初めは英語で勉強するのかと思いましたが、その後、韓国語をマスターするために長い時間をかけることになりました。

──初めてヨハネ李神父に出会ったときのことはおぼえていますか。

 はい、中学で勉強していたときでした。私はトンジで侍者をしていて、李神父様は音楽バンドに入らないかと誘ってくれました。それでフルートとギターをおぼえました。私たちのバンドは30人にまで成長し、私はアルト・サックスを任されました。また、ヨハネ神父がミサの後、毎日小さな診療所へ行き、たくさんの患者を助けているのも私は目にしていました。患者たちは皆、幸せそうでした。私は心の中で思いました。「神父様のようになろう!」と。

──トマスさん、あなたにとってヨハネ神父とはどのような人でしたか。

 私は約8年、ヨハネ神父と一緒に過ごしました。一言で言うのは難しいです。確かなのは、ヨハネ神父がトンジのすべての人に喜びをもたらしたということです。ヨハネ神父は若い人にもお年寄りにも、例外なくすべての人に話しかけていました。初めのころは、彼が司祭だったので近づくのを難しく感じていましたが、後でその距離を乗り越えることができました。医師としての彼を考えるとき、感嘆をおぼえます。特に韓国では、医者になるということは多くの名声や富を得ることを意味します。しかしヨハネ神父は、スーダンという貧しい国に来て私たちに仕えるため、そのすべてを捨てました。それは人生の選択でした。

──韓国の医大で学ぶのは簡単ではありません。卒業してどのように感じていますか。

 まだ信じられません。入学してから今の今まで、本当に難しかったです。しかし、恥ずかしいと思わずに同級生に助けてもらいました。そうして同級生ととても仲良くなり、おっくうがらずに彼らの助けを求めました。私は一生懸命勉強しましたが、日々、仲間の助けがなければ、卒業することも国家試験に受かることも不可能だったでしょう。

──いちばん具体的に助けてくれたのは誰ですか。

 主な恩人がいます。まず、大学の寮のルームメイトたちで、私たちはとても親しくなりました。それから、クラスの友人たち。私たちは試験の前、勉強グループを作って多くの時間を一緒に過ごしました。私が外国人だったので、友人たちはまず、私たちの互いの信頼関係、そして私の患者たちとの信頼関係を築くために助けてくれました。友人たちはよく言いました。「兄貴、そうしたらだめだ、こうするんだ!」彼らの助けは、なくてはならない具体的なものでした。友人たちから、たくさん細かいところまで説明したメモをもらったものです。試験の後、私は彼らのところへ飛んでいき、感謝の気持ちを伝えました。

──故郷、南スーダンでのこれからの人生にどのような夢を持っていますか。

 私の第一の目標はインターンシップと研修期間を修め、外科医になることです。ヨハネ李神父のようになり、トンジの人々に奉仕したいと思います。実は、卒業したらすぐに帰ることを思い描いていましたが、インジェ大学の学術当局は、医学の全養成課程を韓国で仕上げるようにと私を説得しました。南スーダンには、そのための最良の条件がまだそろっていないからです。

──ヨハネ李神父が人生のお手本だと話されていましたね。

 私は誰が自分のお手本か考えたことがありませんでした。しかし、ヨハネ神父に会い、共に暮らしたとき、彼から多くのことを学びました。ヨハネ神父は、教室で知識を伝達する教師というだけではありませんでした。私たちがどのように生きるべきか、何をするべきかを言葉で教えることはありませんでしたが、私は神父様の生きる姿勢を見ていて、ヨハネ神父が人々を幸せにするために、友人として、謙遜な心で、すべての人に近づいていることに気づきました。これは、私がヨハネ李神父から学んだ貴重な生き方です。彼が亡くなったとき、トンジの人々は家族か親戚が亡くなったかのように涙を流しました。いつも他者に向かって最初の一歩を踏み出すというこの姿勢のおかげで、私は韓国で、周りの人たちからたくさんの助けをいただくことができました。

Source: Korean News Service