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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

総長メッセージ12月「神のことをささやきながら」


 

 総長メッセージ(”Bollettino Salesiano” 2018年12月)

神のことをささやきながら

地上を変革し、喜びで満たすことになる、クリスマスの驚くべきメッセージは、見た目にはささやかな、取るに足らないことのように思われます。飼葉桶に寝かされた生れたばかりの赤ちゃんだったからです。私たちも数々の小さく細やかなしるしを通して、多くの目立たず忘れられたような場所で日々、神を告げ知らせます。

 

 「私は何をすればよいのでしょう」とドン・ボスコはカファッソ神父に尋ねました。
 「私と一緒に来て、見るといい。」友であり師でもあったカファッソ神父は答えました。
 そのようにしてドン・ボスコは、刑務所の囚人となっている若者たちと出会いました。「私は自分に言って聞かせた。あの若者たちは刑務所を出たならば、面倒を見て、手助けしたり、教えたり、休みの日に教会に連れて行ってくれるような友人を見つけた方がよいだろう、と」。ドン・ボスコは若者たちにささやかな贈りものやよい勧めを与え、自分の身を振り返れるよう彼らを助けようとしました。彼らは行いを改めると約束しましたが、ドン・ボスコが再び彼らのところに行ってみると、状況は以前のままでした。ある時ドン・ボスコはその様子を見て号泣しました。
 「あの神父はどうして泣いているんだろう」一人の若い囚人が訊きました。
 「なぜって、ぼくらを愛しているからさ。ぼくのお母さんだって、こんなところにいるぼくを見たら、泣くだろうよ」。

 それがドン・ボスコの心でした。

 家族がいない人、この世でひとりぼっちだと感じている人、友情の温もりを失った人、愛にふれたことが一度もない人、いつものけ者にされていると感じている人、そういう人びとにとってドン・ボスコの父のような情愛、マンマ・マルガリータの母の愛、そしてオラトリオ共同体の兄弟愛にふれることは、新たに生き直すこと、生れてはじめて本当の意味で生きることでした。若者たちは司祭ではなく、父を、兄を、友人を探しに来ていました。善良で寛大な、深い人間味のあふれる存在、どんな時間にでも訪ねて来た人を迎え入れることのできる、たゆまぬ忍耐強さを具えた人を彼らは求めていたのでした。

 フェリーチェ・レヴィリオ神父の証言によれば、「彼[ドン・ボスコ]は私たちが絶えずそばにいることを許してくれました。彼が質素な昼食や夕食を終えるやいなや若者たちが狭い食堂にやって来て、周りを囲んでしまうほどでした。煩わしさを感じたかもしれませんが、彼は私たちのほとばしるような感謝の気持ちを優しく受けとめてくれました。そして、私はおそらくドン・ボスコの愛情を誰よりも必要としていたので、一度ならずテーブルの下にもぐりこんで彼の膝の上に頭を休めたのでした」。

 パオロ・アルベラ神父も語っています。「ドン・ボスコは愛によって、私たちを引きつけることによって、私たちの心をつかみ、私たちを変えてゆくことによって教育を行いました。私たちは皆、満ち足りて幸せな雰囲気に包みこまれ、そのおかげで痛みも悲しみも憂いも直ちに消えてゆきました。私たちにとっては彼の何もかもが圧倒的な魅力でした。彼の貫き通すようなまなざしは時として説教よりも効果的でした。ふとした頭の動かし方、口元に絶えず浮んでいるほほ笑みはいつも新鮮で変化に富み、それと同時にいつも落ち着いて穏やかでした。言葉を使わずに語りかけようとするときの口の動き。言葉そのものの抑揚。立ち居振る舞いや、軽やかかつ堂々とした足どり。こうしたことすべてが決して離れることのできない磁石のように私たちの若い心に働きかけたのでした。たとえ離れることができたとしても、世界中の黄金をもらっても私たちはそうしなかったでしょう。ドン・ボスコが私たちに及ぼしたこの類ない影響力のもと、私たちはそれほど幸せだったのです。彼にとってそれはごく自然なもので、研究したり努力したりして得たものではなかったのです」。

 ドン・ボスコの生き方そのものが、彼の教育学の教科書です。

 教育者は警察官になってはいけません。教育者は、若者たちに考えること、振り返ること、価値を見つけることを教える、父、母、兄、姉、友人です。これらすべての鍵は若者たちの中に共にいることです。ドン・ボスコの考えでは、教育はあたかもエネルギーの交流のように、個人的なふれあいを通して伝えられるものです。彼は状況の許す限り、ほかのすべてのことを脇においてでも若者たちと共に中庭にいるようにしていました。これは彼にとってエウカリスチアを生きる方法だったのです。「最期の息まで、すべては君たちのために」。

 私も出席した若者についてのシノドスの会期中、若者たちの発言は私たちを目覚めさせました。彼らは私たちが言葉で告げ、真に信じていることを、もっと勇気をもって証しするようにと胸を張って私たちに求めました。教会の聖職者・修道者にとどまらず、大人の証し人が必要とされています。世の中に父性、母性が欠乏しているからです。

 私たちは応え続けなくてはなりませんが、それは私たちの小教区、学校、オラトリオ、ユースセンター、ストリートチルドレンのシェルターだけに限られません。将来の展望はもっと広いものです。サレジオ会員としてなじみ深い、サレジオ的なそれらの場所では、正真正銘の、成熟した健全な母性と父性を実現することができます。時に、教育者は若者にとって友人、兄や姉であるでしょう。けれども教育者が若者にとって真の母ないし父となることは、私たちが与え続けなくてはならない大きな贈りものなのです。それは人生の知恵を伝えることです。

 クリスマスの日、私たちは御父の本性の驚くべき啓示を祝います。キリストはそれと完全に一致しておられます。イエスは神でありながら、幼な子としてご自身をあらわされます。このようなことはそれまで歴史上一度として起こったことがありませんでした - 幼な子の顔をもつ神。私たちの信仰の中心にあるのは「冷たい論理」ではなく、小さき者、素朴な者、踏みにじられた者に対する真の優しさです。

 私たちのもとにいる若者たちは、私たちが彼らを愛していること、彼らと共に彼らの人生と信仰の道のりを共に歩みたいと思っていることを私たちから聞かなくてはなりません。私たちの若者たちは、彼らと共にいる私たちの存在が愛情深く、効力をもつものであると感じなくてはなりません。私たちが持っている最良のもの ― 主であるイエス・キリスト ― を彼らと分ち合いたいと願っていることを感じなくてはなりません。そして私たちが彼らの人生に指示を与えたり、生き方を押し付けたりすることを望んではいないことも。私たちが彼らのためにここにいること、もし彼らが許すなら、彼らの幸せ、希望、喜び、苦しみや涙、迷い、意味の探求、召命、そして彼らの現在と未来を分ち合うためにこうしてここにいることを彼らは感じなくてはならないのです。

 神が存在していることを私たちはどのようにして示したらよいでしょうか。

 小さな子どもがお母さんに訊きました。「神さまはいると思う?」
 「ええ、そう思うわ」。
 「神様はどんななの?」
 その女性は子どもを引き寄せると強く抱きしめて、言いました。「神様はこんな感じよ」。
 「わかったよ」と子どもは言いました。

 若者たちは、私たちが彼らに神のことをささやいているのを感じなくてはなりません。私たちは、際立った正統な教義や実践を説くまでには至らないかもしれません。けれども私たちのささやかな仲介によって若者たちはイエスが彼らを愛しておられること、いつも彼らを迎え入れてくださることを感じ取らねばならないのです。

 そうして、聖心大聖堂でささげられた最後の何回かのミサの時のドン・ボスコのように、私たちはすべてに意味があったことを理解するでしょう。

サレジオ会総長 アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父


《翻訳:サレジアニ・コオペラトーリ 佐藤栄利子》