サレジオ家族の聖人略伝
サレジオ会とファミリーの聖人・福者など、
神と人々に生涯を捧げた模範的な人々の略伝を紹介します。
Jan Swierc and His 8companionsヤン・スヴィレク司祭と8人の同志殉教者1877-1941年
サレジオ会司祭
帰天:1941年6月27日
ヤン・スヴィレクは1877年4月29日、アルタ・シレジアのクルエスカ町で生まれる。父マタイ、母フランチェスカ・ローテルであった。ヴァルサリチェのサレジオ学院の評判を聞き、高校の課程を終了するためにイタリアに来た。やがて、サレジオ会員になりたいと願い、イヴレアで修練期を始めた。哲学と神学をトリノで学び、リチェルミ枢機卿によってトリノで、1903年6月6日、司祭に叙階された。ポーランドに帰って、サレジオ精神に基づいた教育に専念したが、優れた才能と豊かな聖徳で際立っていた。オシエンチム(アウシュビッツ)での最初の院長となり、その後、ポーランドの各支部で働いた。常に管区評議員として、その死にいたるまで優れた助言者であった。彼は、サレジオ会修道者として模範的であり、修道会とドン・ボスコを愛し、常にその精神の証し人であった。彼の賢明さも皆から認められており、困難な、デリケートな事柄をゆだねられていた。
クラクフ・デンプニキの主任司祭、院長であった1941年5月23日、他の仲間とともに、ドイツの警察によって捕らえられ、クラクフの収容所に収監された。さらに、その後、アウシュビッツの強制収容所に連行されたのであった。
1941年6月27日、残酷な仕打ちを受け、彼が司祭であるため、そして、イエスの名を唱え続けたために、ドイツ人の兵士によって殺害された。64歳、誓願42年、司祭職38年のことであった。その聖人の誉れも高く、殉教とも見なされる生涯であった。