サレジオ家族の聖人略伝
サレジオ会とファミリーの聖人・福者など、
神と人々に生涯を捧げた模範的な人々の略伝を紹介します。
Young Polish 5 martir福者フランシスコ・ケイシーと同志殉教者1920-1940年
ポーランドで殉教
記念日:6月12日
1939年9月1日、ヒトラーはポーランドに侵攻した。第2次世界大戦の勃発である。ウロニエッカ街にあるポツナンのサレジオ会の支部は占領され、ドイツ兵の兵舎になった。ポツナンが占領されたのち、ナチスは教会でミサ聖祭をささげることや、オラトリオに若者たちを集めることをはっきりと禁じた。にもかかわらず、若者たちは、オラトリオが接収されたのちにも出会いの機会をもっていた。町の小さな公園とか、川沿いの原っぱとか、近くの森などに集まっていたのである。
それは、やがて、秘密警察のかぎつけるところとなり、1940年9月、フランシスコ・ケイシーと4人のオラトリオの仲間たちは非合法組織に属したとの理由で逮捕された。彼らはポツナンの第7収容所に集められたのち、3か所を転々と連行され、尋問、拷問を受け、重労働を課せられた。
この間、彼らは収容されたところは異なってはいても、人間的にも、キリスト教的にもオラトリオという環境で成長した連帯感をもち、他の同僚をも励まし、祈り合って信仰の試練に耐えていったのである。
「わたしたちがどんなに苦しんだかは、神様だけがご存知です。祈りだけが昼と夜のふちにあって、唯一の助けです」。さらに「神は十字架をくださいました。そして、その十字架をになう力も与え続けておられます」とメモを残している。
1942年8月1日、国家への反逆のとがで、死刑の宣告が言い渡された。3週間後、彼らは、ダッハウ収容所の中庭に連行され、準備されたギロチンによって若いいのちは神に戻された。サレジアン・ファミリーの共同体が、扶助者聖母の毎月の記念を行っていた日である。処刑の前に、両親に宛て手紙を書くことができ、貴重な資料となっている。
ヴェッキ神父は列福式に参加し、その感動を書簡にしたため、第10代総長チャーベス神父は、この5人の若者を「オラトリオから生まれた予防教育法の結実である」と絶賛した。
フランシスコ・ケイシーは、1920年11月13日、貧しい家庭の5人兄弟の3番目の子どもとしてベルリンで生まれた。父親の仕事でポツナンに転居した。フランシスコはサレジオ会の志願者であったが、占領下で勉学を継続することができず町工場に勤める。彼は、自由時間をオラトリオで過ごし、他の4人と深い友情と理想に結ばれ、青年会のリーダーとして活躍した。 感じやすい性格で病弱であったが、明るく、物静かでりっぱな人格者で、他人の助けに寛大であった。毎日、聖体を拝領し、夕方には、ロザリオを唱えていた。
エドワード・クリニックは1919年6月21日にボクムで生まれた。控え目で静かな性格であったが、オラトリオに通うようになってから活発になった。頭脳明晰で、責任感があり、すべての活動をうまくこなしていた。グループの中でまじめで熟考して行動をするタイプの青年であった。聖体と聖母への信心が篤く、ドン・ボスコの理想に燃えていた。
ヤロクニェク・ヴォィチェホスキーは1922年11月5日、ポツナンに生まれる。家庭的には恵まれず、姉の家で生活し、転校を余儀なくされた。オラトリオに通うことによって、心の支えを見いだした。思慮深く日常の出来事の意味を理解するように努めていた。友好的な人間関係を築き、兄弟愛に秀で、ユーモアのセンスがあり、オラトリオのプログラムに熱心に参加していた。
チェスワフ・ヨショヒャクは1919年9月7日、ラツニエに誕生。10歳からオラトリオに通い、のちに青年グループの活性化に協力した。短気な性格であったが、自発性があり、エネルギーにあふれていた。自制心があり強い信念をもち、犠牲心に富み一貫した行動をとっていた。キリスト教的完徳を望み、かなりの進歩を見せていた。「よい心と性質に恵まれ、水晶のような魂をもっていた」という証言がある。
エドワルド・カジィミエルスキーは1919年10月1日、ポツナンの貧しい靴屋の家庭に生まれる。小学校を終えると、機械工場で働き、オラトリオの生徒となる。その環境で、音楽の才能を発揮した。教会で歌うことを好み、コーラスではソリストをつとめ、15歳で作曲を試みている。 生き生きとした信仰を家庭で身につけた彼は、仕事の後の自由時間をオラトリオで過ごし、キリスト教的な成長をとげた。 活発、沈着な性格で、収容所では、同僚に対して寛大で、迫害者に対しても憎しみの感情にとらわれることはなかった。