サレジオ家族の聖人略伝
サレジオ会とファミリーの聖人・福者など、
神と人々に生涯を捧げた模範的な人々の略伝を紹介します。
Alberto Marvelli福者アルベルト・マルヴェッリ1918-1946年
ドン・ボスコのオラトリオ会員
記念日:10月5日
1918年に7人兄弟の2番目の子どもとして、フェラーラに生まれる。家族がリミニに転居したとき、サレジオ会のオラトリオに通うようになる。健康な体、激しい性格であったが、落ち着いた大人の雰囲気を漂わせていた。サレジオ会員の右腕となって、高校生のころからオラトリオのアニメーターを果たし、要理教授を担当し、集まりのリーダー格となり、才覚をふるった。18歳のとき、カトリック・アクションの会長に選ばれた。
18歳で、ボローニャ大学工学部に入学。第2次世界大戦がぼっ発したのはこのころで、イタリアはこれに参戦。アルベルトは1942年、大学を卒業し、トリノのフィアット社に就職した。戦争が激化すると、トリエステで兵役に服した。兵役につきながらも彼は仲間たちをミサに誘うという快挙を遂げた。第2次世界大戦中、彼は難民たちと貧しい人びとの使徒となった。戦争が終わって、連合軍がリミニに進駐してくるとマルヴェッリは都市復興計画委員会の代表に任命され、土木工学の分野を担当した。復興の方針として、「生活にゆとりのある人は後でよい、貧しい人を最優先しよう」と訴えた。
やがて、キリスト教民主党の候補者に擁立された。信心深く誠実な彼には支持者は多かったが激戦になった。しかし、それは対立のもととはならなかった。ある共産党の対立候補者はこのようにもらしていた。「自分の党が敗北したとしてもかまわない。マルヴェッリが市長になるかぎり」。
彼の霊的生活の柱は、聖体とマリアへの信心であった。「至聖なる秘跡におけるイエスを観想するとき、わたしには新しく、広い世界がひらけてくることか」と日記にしたためている。
将来を期待された青年であったが、その生涯は唐突に終わった。1946年10月5日、母親と夕食を終え、自転車に乗って、集会に急いで出かけたとき、家の近くで、異常な速度で走る軍用トラックにはねられ、28歳の人生を神の手に返した。 彼こそ、善良な市民、良きキリスト者の理想を体現した典型である。新3000年期の若者に、日々の聖性の手本を示し、サレジオ会の教育が聖人を生み出す道であると認めさせたマルヴェッリを、「予防教育の実り」であると第10代総長チャーベス神父は絶賛した。 2004年9月5日、イタリアのロレートで、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、福者の列に加えられた。