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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

サレジオ家族の聖人略伝

サレジオ会とファミリーの聖人・福者など、
神と人々に生涯を捧げた模範的な人々の略伝を紹介します。

Augusto Czartoryski福者アウグスト・チャルトリスキー司祭1858-1892年
サレジオ会司祭

記念日:8月2日


 1858年、ポーランド王族の一員として、亡命中のパリで誕生する。ちなみに、母方の祖母はスペイン女王である。
 王室の伝統に沿った教育を受けていたが、5歳のとき、母親は他界する。このことと、父親の頻繁な不在は空虚な生活となったが、深い信心によって補われていた。
 10歳から17歳までの多感な時期を、健康上と政治上の理由でパリとクラクフで過ごす。この時期に、カリノウスキーという類まれな指導者に恵まれる。彼は、ポーランドに生まれ、軍隊生活ののちシベリアで10年間強制労働に服し、カルメル会に入り、後に聖人に挙げられた。彼によって、アウグストは価値観、修徳、司祭へのあくなき望みなどにおいて多大な影響を受けた。
 一方、父親は息子に対して、外交官のキャリアを期待していた。カリノウスキーもその路線に従い、同年代の青年に交わり、社会生活を送ることができるように配慮したが、健康上の理由で困難をきわめた。新しい指導者のもとで心身の回復と教育を受けていたころ、サレジオ会との決定的な出会いがもたらされた。
 1883年5月18日、パリを訪れていたドン・ボスコは招かれて、ランベール宮殿でミサをささげた。アウグストはミサに仕え、聖体拝領した。これを機に、召命が芽生え始めた。ドン・ボスコと手紙のやりとりがあり、徳を修め、慈善事業に励むように、さらに、父親の期待に沿うように勧められた。やがて、ドン・ボスコを訪れたが、消極的であった。そこで、彼は、教皇レオ13世を訪ね、入会の許可を得た。
 こうして、チャルトリスキーは修練者として受け入れられ、最晩年のドン・ボスコは着衣式に立ち会い、彼を励ました。哲学の課程に入って、体調を崩し、アンドレア・ベルトラミの看護を受ける。引き続く家族からの反対、さまざまな提案がなされたが、司祭への強い信念は揺らぐことなく、1892年4月2日、家族の参加はないまま、サンレモで司祭に叙階された。その後、家族に秘跡を授け、わずか1年の司祭生活の幕を閉じた。35歳であった。
 遺体はポーランドに運ばれ、初聖体を受けたシエナワ教会の地下室に安置されている。
 2004年4月25日、同国の教皇ヨハネ・パウロ2世によって福者の列に加えられた。
 サレジオ会の聖性の光り輝く星である彼の生涯は、サレジオ会の霊性の一面を示していると評価されている。聖フランシスコ・サレジオが力説する神にいたる労働のエクスタシーを、人びとは実際的な活動によって体得するが、それはいかなる境遇にあっても、すべてをささげることによって、はじめて可能になる聖性であることをあかししている。
 活動的に振る舞うことも必要であるが、聖性は、まず観想的であるべきことを想起させるために、神が与えたメッセージであろう。これが「聖性のあかし」である。