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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

サレジオ家族の聖人略伝

サレジオ会とファミリーの聖人・福者など、
神と人々に生涯を捧げた模範的な人々の略伝を紹介します。

Calasanz & 31, Aparicio & 62 SpanishMartyrs福者ヨセフ・カラサンス、エンリコ・アパリシアス司祭と同志殉教者1872-1936年
スペインで殉教

記念日:9月22日


 1930年代のスペインは、内戦と宗教的迫害の時代であった。王制崩壊によって反宗教的政権が始まり、教会や修道院の破壊以上に、報道機関を用いて反宗教心をあおった。トレドの大司教の国外追放を皮切りに、教会への弾圧を強化し、学校の閉鎖を命じ、さらに、福祉事業も認めない方針をたてた。
 内戦における反宗教的スローガンは「司祭皆殺し」で、「聖人の誉れ高い者、慈善事業に携わる者」に的をしぼって弾圧した。こうして、内乱の政治的動機は反宗教のものに変わっていった。それに伴う迫害の悲惨さは、スペインの歴史の中でも類をみないものとなった。
 1936年、スペインのサレジオ家族は繁栄をきわめていた。サレジオ会には4つの管区があり、サレジアン・シスターズにも1つの管区があり、数百人の両会員たちは、共産主義者の迫害から免れることはできなかった。内戦終了後、100人以上の会員が行方不明になり、迫害のため英雄的な最期を遂げたと推測された。サレジオ会の聖性の歴史の中でも、もっとも光栄ある、しかも忘れることのできない特筆すべき時期であった。しかし、これらの犠牲は隠れた場所でひそかになされた。
 このため、迫害が始まってからの情報は注意深く、骨身惜しまず収集されたが総括調査ははかどらなかった。その調査はバレンシア・バルセローナ管区、セビリア・コルドバ管区、マドリード管区を中心に進められた。しかし、調査は中断され、その後の再開で、サレジオ会関係者は95人とし、2つのグループに分けて作業が進められた。その結果、バレンシア・バルセローナ管区の調査に、目撃者による殉教の事実の証言が得られたことにより、ヨセフ・カラサンスと31人の殉教が認められ、2001年3月11日に福者の列に加えられた。その内訳は、司祭16人、修道士7人、神学生6人、扶助者聖母会員2人、信徒1人である。
 さらに、セビリア・コルドバ管区、マドリード管区の調査も進められ、エンリコ・アパリシアスを含む63名の同志殉教者の証言や記録が得られた。1995年10月に列福請願書が作成され、2007年10月28日、福者の栄誉を受けた。その内訳は、マドリード管区・ビルバオ管区で、司祭10人、修道士14人、神学生14人、志願生3人、信徒1人、セビリア・コルドバ管区で司祭13人、修道士3人。神学生2人、信徒が3人である。

 司祭ヨセフ・カラサンスは1872年、スペインのフェスカ市に生まれる。バルセローナのサリア支部の施設で育つ。ドン・ボスコが訪問した1886年、サレジオ会に入会。1895年、叙階。リナルディ神父の秘書、キューバの管区長、スペインのタラコーナ管区長を歴任する。リナルディ神父の影響を受け、父性愛あふれる上長としてリーダーシップを発揮した。
 1936年7月、黙想会中、会員たちはモデロ刑務所に連行される。その後、まもなく釈放されるが、カラサンスと3人の会員は再逮捕され、7月29日、バレンシアに移送中、司祭を憎む兵士の放つ銃弾にそ撃された。

 ヤコブ・オルティス修道士は1913年、パンプローナに生まれる。12歳のときサレジオ会の職業学校に入学。規則に縛られない、無邪気な性格であったが、生きる道を模索しているとき、召命を受け、1932年、修道士として誓願をたてた。トリノで資格を得た後、サリアの職業学校に赴任し、陽気で生徒に親しまれ、同僚からも尊敬された。神学生フィリッポ・ヘルナンデス、犠牲の精神と教育的手腕に秀でていた神学生ゼカリア・アバディアと共に捕らえられ、1936年7月27日、拷問により処刑された。

 カルメン・モラノ修道女は1885年、ヴィラマルティンの信仰篤い家庭に生まれる。福者エウセビア・パロミーノの院長も務めた。副管区長のとき、内乱の最中、会員たちを避難させたが、重病の会員の介護と看護のため残留した。1か月後、1936年9月1日、同僚のアンパーロとともにバルセローナで処刑された。

 アンパーロ・カルボネル修道女は1893年11月9日、バレンシアの貧しい農家に生まれる。幼少時、サレジアン・シスターズの学校に学び、召命のために家族の反対にあうが、1923年、立願。内乱時、シスター・カルメンとともに同じ選択をし、逮捕され、1936年9月1日、同僚とともにバルセローナにて処刑された。

 アレキサンデル・プラナスは、1875年、バルセローナのマタロに生まれる。耳と口が不自由であったが、サレジオ会を自分の家族、会員たちを兄弟と考えていた。教養があり、彫刻に才があり、宗教的に高い評価を受けていた。サレジオ会員が学校から追放されたあと、福者ガルシアの訪問を受けたために逮捕され、1936年11月19日、ガラフにて処刑される。

 エンリコ・アパリシアスはマドリードの郊外にある志願院の院長であった。1936年7月20日の早朝、施設が反乱軍に襲われたとき、志願生の解放を求め釈放させた。会員たちも一旦、自由の身となったが、アパリシアスは再逮捕され、総合病院で銃殺された。「神の栄光のために死ぬことはなんと美しいこと」と常々口にしていた。

 神学生ステファノは9月22日、捜査の手が及んだ。姉は引き留めたが、「神の望みなら身を捧げます」、「修道者であることは連行するに足る理由だ」と言い、連行、射殺された。その記録がマドリードの裁判所の記録庫にある。

 アントニオ・トレーロ神父はロダン市の聖心支部の院長で、セビリア・コルドバ管区のリーダー格であった。7月24日、支部は侵略され、聖堂も荒らされ、会員たちは追われた。トレーロ神父は高齢の聴罪司祭カヌート神父と協力者の家に避難していたが、逮捕され、その日のうちに殺害された。

 協力者テレサ・セフードは投獄されて、裁判にかけられ、9月16日、非難すべき咎が見いだされず、ただ、マルクス主義者ではないという理由で死刑の判決を受けた。4日後、ほかの17人とともに墓地にて銃殺された。最後に処刑されることを望み、仲間を励まし、ゆるしの精神を吹き込み、目隠しを拒み、命を主に返した。