サレジオ家族の聖人略伝
サレジオ会とファミリーの聖人・福者など、
神と人々に生涯を捧げた模範的な人々の略伝を紹介します。
Giuseppe Kowalski福者ヨセフ・コワルスキー司祭殉教者1911-1942年
アウシュヴィッツで殉教
記念日:5月29日
1933年、ドイツでは、ナチス政権が成立し、ホロコースト政策がうち出された。ダッハウやアウシュヴィッツでは「信仰への憎しみ」のため、多くの殉教者が輩出した。
1939年から1945年にかけて、ポーランドはナチス軍に占領され、殉教者の血が流された。1987年、1人の司教の列福を機に、すべてのポーランド人殉教者の調査が開始された。これによって、108人の殉教が認められ、1999年6月3日、教皇ヨハネ・パウロ2世により福者の列に加えられた。
108人のうち、1人のサレジオ会司祭がアウシュヴィッツで拷問により、さらにダッハウではオラトリオで働いた5名の若者が斬首刑により、神にいのちをささげたのである。
ヨセフ・コワルスキー神父は、1911年、ポーランドの農村の信仰深い家庭に誕生した。ヨセフは小学校を終えると、オシェヴィエンチェム(アウシュヴィッツ)の聖ヨハネ・ボスコ学院に入学。無原罪の聖母の信心会でリーダーシップをとり、やがて、サレジオ会を志願した。1938年、クラクフで叙階される。
叙階後、管区長秘書を務めるかたわら、クラクフの若者の司牧に熱心にとりくんだ。3年後、1941年5月23日、コワルスキーを含む11人のサレジオ会員が、ナチス軍により逮捕された。
捕らえられて1か月後に、アウシュヴィッツの収容所に移送され、重犯者棟に入れられ、1年間にわたって重労働が課せられた。司祭であるがために厳しい扱いを受けた。彼はこれにひるむことなく、司祭としての務めを果たし、同僚の会員の殺害に直面することがあっても、励ましと希望を与えた。
1942年6月3日、重労働を終え、くたくたになったヨセフは仲間と祈りをささげていたとき、看守長が彼を呼びだした。「わたしのパンを食べてください。わたしはもういらないから」と、このことばを残して部屋を出ていった。
看守たちは、彼が司祭であるという理由でリンチを加え、口々に侮辱のことばを浴びせた。こうして、コワルスキー神父は自分の魂を神に返した。
やせこけ、汚れはてた遺体が収容所の前にうち捨てられているのを囚人シュテハァン・ボラティンスキーは見た。それは、もっとも崇高な生涯の、もっとも悲惨な最期のあかしであった。