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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

ありがとう!古木眞理一神父 大らかで情に熱い人


2016年6月8日、サレジオ会司祭 ヨセフ 古木眞理一神父が、長崎県愛野町 愛野中央病院で帰天された。2015年5月末から長崎県外海にあるイエスのカリタス修道女会の修道院の司祭館へ移り、がん治療をしていた矢先だった。
十字架を背負って歩いた話や25歳で高校へ入った話など、司祭への道のりはとても個性的だ。青少年に向かう大らかさと様々なことに情熱を傾ける姿は、多くの人の記憶に残っている。


 古木師は福岡県行橋市のカトリック信者の家庭で生まれ育ちました。9人兄弟(男4人、女5人)の上から2番目の長男で、幼稚園生のころから、年上の小学生を待ち伏せして泣かすくらいの親泣かせなやんちゃ者でした。小学校高学年になると、先輩の不良仲間に目をつけられるようになり、それを心配した親や周りの大人が、彼を守るために大分県中津市のドン・ボスコ学園(現聖ヨゼフ寮)へ彼を入園させ、中学校までをここで過ごします。
 中学校を卒業後、大分県中津市で働きながら、教会の青年会で活動していた時、大分教区の青少年司牧担当をしていた故溝部脩司教(当時神父)から「司祭にならないか」と声をかけられたのが司祭を目指すきっかけとなりました。なれるわけがないと思っていた彼の心は大きく揺さぶられ、その後の家での病気療養中に「試してみよう」と決意します。そのために一つの試練を自分に課します。「大きな十字架を背負って歩いてみよう。そんな恥ずかしくてつらいことを耐えることができたら、司祭への召命があるのかもしれない」。そして中津市から大分市の大分教会(カテドラル)までの約70kmを、国道10号線を通って手製の重い木の十字架を担いで運び切ります。これを機に決意を固め、当時神奈川県川崎市にあったサレジオ志願院(小神学校)で25歳の高校生となりました。苦学の末、1987年3月7日に司祭叙階の恵みを受け、念願の司祭となりました。
 司祭叙階後は、宮崎の日向学院の寮長、東京の育英高専の事務、大分大学のそばにあったサレジオスタディセンター担当、そして愛野教会の主任司祭と小さき花の幼稚園の園長を務めました。2011年から長崎教区に出向し、東日本大震災後、岩手県の大槌町にあるカリタス大槌ベースで復興センター長として活躍しました。2014年から時津教会に主任司祭として赴任していました。
 2015年春、体調を崩して長崎大学病院で検診を受けたところ、肺に悪性のがんが見つかりました。抗がん剤の治療は大変な苦しみを伴いましたが、すべてが神のみ旨であることを受け入れ、その力を信じ、治療に努めていました。2016年6月8日、外出先で体調が急変。肺栓塞炎のため帰天されました。
 手先の器用な人で、消しゴム彫刻、散髪、絵など上手でした。運動神経がよく、どんなスポーツでもこなしました。車の運転も好きで、毎年夏、長野の野尻湖で行われる聖書学校に子どもたちを連れていったりもしていました。
 青少年たちの中に入り、彼らの心をつかみ、なにより難しい子どもたちを受け入れ、導くセンスに秀でている人でした。近隣の学校の先生たちからの信頼も厚かったとききます。また、この人はと思う青年には声をかけ、奉献生活の召命の道を示し、同伴もしました。
 がん治療中も、他の人には深刻な顔や不安を絶対に見せず、常に司祭としてふるまっていました。そして亡くなる1か月前、長崎教区と契約を解除してサレジオ会の支部に戻る準備をしていました。「サレジオ会員としてだけ生きたい。サレジオ会員だから」と。
(編/サレジオ会・編集部)

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、
決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。
(テモテへの手紙二4章7〜8節)


ヨセフ古木 眞理一
 1949年10月30日福岡県行橋市生まれ。1987年3月7日司祭叙階。サレジオ会の学校などで奉職。1999年より愛野教会主任司祭、小さき花の幼稚園園長。2011年より長崎教会管区カリタス大槌ベース長、長崎教区事務局次長。2014年より時津教会主任司祭。2016年6月8日帰天。修道生活37年、司祭生活29年。享年66歳。