ページのトップへ

サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

ありがとう!スミス神父 温厚な性格で誰からも慕われた司祭



写真:2015年6月の管区共同体の集いにて。右はカバリエレ神父。

その訃報に誰もが驚いた。やさしさに溢れた表情と控えめな性格で、誰からも慕われたスミス神父は、本当のジェントルマンだった。

● 戦時中の混乱の中で

 リチャード・スミス師は1927年10月5日に、イギリス国籍の父エドワード・アルフレッド・スミス、母ひろ(旧姓・鈴木)の間に神戸で生まれた。父エドワードは当時有名な貿易商であり、また熱心なカトリック信徒として、戦前の無声映画「殉教血史 日本二十六聖人」の制作の資金援助をしたという。
 母ひろが早くに亡くなり、スミス師は当時大分県の中津教会のそばに作られた小神学校入学の前身である寮に入る。小さい時からチマッティ神父を慕い、模範とする生活を始めた。しかし戦時中のため修道会でも修練期を行うゆとりが無く、入会を待機させられた。
 戦後最初の修練者となり、1948年に初誓願。サレジオ会員として司祭への道を歩み始めたが、日本管区ではまだ司祭養成の体制が整っていなかったため、アメリカ・ニュージャージーのニュー・ロケッレ大学に留学し、哲学を履修した。帰国後、実地課程を育英学院(現サレジオ高専)で行い、体制の整った調布神学院で神学を学び、1959年3月8日に晴れて司祭に叙階された。叙階式でのモットーは、「私は主イエズス・キリストの十字架以外の何物にも誇りを置かないであろう。」(ガラテア書6・14)
 司祭になってからは、東京サレジオ学園、目黒サレジオ中学校、大阪星光学院、川崎サレジオ中学・高等学校などで特に英語の教師として働く。生徒たちからはユニークな先生として慕われ、その温厚な性格で特に霊的指導の面で生徒たちを指導した。

● チマッティ神父を模範として

 その後、関東地区の教会の主任司祭や助任・協力司祭として働き、また1999年から2006年まで目黒サレジオ幼稚園の園長を務めた。その間、几帳面さが信頼されて長年支部財務を任された。
 ミサの奉仕を依頼されると、近くであれば自ら自動車を運転し、遠方であれば鉄道を駆使して喜んで出かけた。年齢を考えて周りが心配しても、司祭の務めを最後まで忠実に果たした。
趣味は、秋葉原の電気街に電気製品を見に行くこと。また特に買うわけでもないがフリーマーケットを見てまわるのが好きであった。テレサ・テンの歌が大好きというお茶目なところも。
 昨年8月末、ドミニコ会修道士であった兄の墓参に出かけ、福島市のホテルに宿泊している時に、急変し、その生涯を終えて神のもとに召された。医師の判断では8月28日午後8時ごろ急性心臓死だとされる。米寿を間近にして、多くの人がお祝いをしようと計画していた矢先だった。
 常に温厚な人柄はだれからも慕われ、他人と争いをしたことはほとんど見たことのない方であった。若い時からチマッティ神父の薫陶を受け、それを生き抜いたサレジオ会員であることを多くの人が認めている。師のへりくだりの姿勢とおだやかな態度は、生涯変わらず、目立つようなことを求めようとしない方であった。
 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイによる福音書5・5)
(文/サレジオ会)


リチャード・スミス Richard Smith
 1927年10月5日神戸市生まれ。1948年1月初誓願。アメリカにて哲学、調布神学院にて神学履修。1959年3月司祭叙階。日本各地の学校、教会にて奉職。2015年8月28日福島にて帰天。