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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

ありがとう! ピサルスキー神父 宣教師としてささげ尽くした人生


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写真:1992年5月23日、目黒サレジオ幼稚園にて聖母祭での一コマ

 2013年5月6日、93歳で天国に旅立ったニコデモ・ピサルスキー神父。祖国ポーランドから遠く日本の地で宣教師として76年、司祭として67年の生涯だった。 優しさと、時には厳しさをもって、どんな場所でも宣教の実りを結ぶよう努力を惜しまなかったピサルスキー神父の心には、いつも福音を告げる者としての誇りがあった。
  

● 宣教の熱意に燃えた若者

 1918年ドイツ国境に近いポーランド農村部の町に、11人兄弟の一人としてピサルスキー神父は生まれた。14歳でサレジオ会志願院に入り、1937年に誓願を立てた。当時の総長リカルドーネ神父は、1000人の会員を宣教地に派遣することを教皇に約束し、ポーランドでも多くの若い会員が宣教師に志願した。その中にピサルスキー師もいた。7人の仲間と共に1973年11月22日に来日、チマッティ師のもとで指導を受けた。時代は第二次大戦、その影響を受けて養成を中断し、長野の野尻に疎開していた時の涙ぐましいエピソードがある。ピサルスキー神学生ともう一人は毎朝、乳牛を野原に連れて行き、牛が食べる草を観察、同じ野草を集めては皆で飢えをしのいだという。

● 行動する宣教師

 1946年12月に司祭に叙階されたピサルスキー神父は開校したての日向学院と志願院に赴任、生活指導や音楽の授業で生徒に高いレベルを求める厳しい先生だった。学校、小教区、幼稚園と派遣されるそれぞれの場で、持てる力を注いだ。育英高専(現サレジオ高専)では、校長となって数年で赤字だった経営を健全化、学校の雰囲気を立て直し、教育を充実させた。別府の海の星幼稚園、東京の目黒サレジオ幼稚園では、親しみやすく優しい園長として予防教育を身をもって示した。ある教え子は、「神父様は私にとってお父さんでした」と語る。大分教区の幼稚園をまとめ学校法人「大分カトリック学園」を立ち上げるために尽力し、平山司教に「行動する宣教師」と評された。
 1996年の司祭叙階50周年は、ローマでヨハネ・パウロ二世と共に祝った。2008年12月3日、来日したポーランド大統領より聖フランシスコ・ザビエルの祝日に勲章を授与されたことは、ピサルスキー神父の宣教師としての奉仕と恵みを飾る目に見えるしるしである。
 2007年に脳血栓で倒れて以来、晩年は病の苦しみを捧げる日々だった。それでも、世話をしてくれる人たちにいつも微笑み、ニコデモの名前にかけて“ニコニコ神父”と親しまれた。
 好きな聖書の言葉は聖バルトロマイの祝日に読まれるもの。故郷の聖バルトロマイ教会で洗礼を受け、宣教師として生涯をささげたピサルスキー神父の心を語る。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ52・7)
 「彼はなすべきことをした」と同期で同郷のモスカ師はピサルスキー師の生涯を要約する。宣教師として奉仕に生きたピサルスキー神父のひたむきな姿は、ドン・ボスコに倣いイエス・キリストに従う私たちの歩みを力づけてくれる。私たちはその生涯を神に感謝してやまない。ピサルスキー神父様、ありがとうございました!

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ニコデモ・ピサルスキー Nikodem PISARSKI sdb
サレジオ会司祭。1918年9月13日ポーランド生まれ。1937年来日。育英高専、目黒サレジオ幼稚園など、教育の現場で活躍。1999年別府教会に移り、2013年5月6日、帰天。