ありがとう!秋元神父いつも喜んで人びとのために働いた司祭
サレジオ会の最初の日本人司祭、秋元保夫神父が2012年8月28日、98歳で天に召された。イエスのみ旨に自分自身を明け渡し、いつも喜んで人びとのためにタレントをささげた牧者だった。
● ドン・ボスコに強くひかれて
秋元神父は1913年11月11日、東京生まれ。祖父母の代からカトリック信者だったが、自分に司祭職の召命があるとは思っていなかった。「私は生まれつき気が小さく、視力も弱く、頭もよくない上に消極的で体力が人より劣っているという賜物をもっていました」(叙階50周年記念誌)、また「一見、無謀とも思える決意が出来たのは、自分にとって本当に不思議と思われた……これが、主の愛の力、聖霊の恩恵で無くして何でしょうか」とふり返っている。秋元神父は主に明け渡す素直さによって、主の呼びかけに応えた。
20歳で上智大学に入学し、学業やボランティア活動にいそしんでいた頃、チマッティ神父の創刊した「ドン・ボスコ」誌を読んでドン・ボスコに強くひかれ、東京に来たばかりのサレジオ会と出会う。その後、宮崎志願院に入り、1935年12月29日に開設されたばかりの修練院に入り、翌年12月29日、初誓願を宣立。極度の近視のため兵役を免れた秋元神学生は、戦時中、国策により重要な責任から降りなければならなかった外国人宣教師に代わって帝都育英工業学校(現サレジオ高専)の理事長を務めるなど、重責を担った。
● 人との間に壁を作らない
1944年3月25日、聖母マリアのお告げの祭日に、秋元神父は戦地に散った仲間の犠牲を胸に司祭叙階の恵みを受けた。この日を待ち焦がれたチマッティ管区長は、たいへんな喜びようだったという。
このときチマッティ神父から贈られた言葉を、秋元神父は生涯大切にした。「愛するマルチノ神父様、目指してきたゴールが見えてきました。ますますイエスに近づくように努めなさい。思い、言葉、行いにおいて、完全なものとなる努力において、イエスの聖なるみ旨に全面的に自分を明け渡しながら。」
秋元神父は宮崎教会、大分教会、杵築教会、別府教会、下井草教会で司牧者として働き、病人を大事にし、聴罪司祭として慕われた。2003年にサレジオ・ハウスへ移るまで、特にイエスのカリタス修道女会本部の聴罪司祭を務めた。
明朗快活、単純素朴な秋元神父は、”Faccio io”(喜んでやります)の精神で人びとのためにタレントをささげた。人との間に壁を作らないその人柄から、神父は私たちにたくさんの思い出を残してくれた。旅行記『イタリアの空の下』にしたためられた感動の旅、祝いの席でのねじり鉢巻、着物にたすきがけ姿で歌い踊ってくれた「出船の港」、胃腸に良いと耳にして青蛙を丸呑みにした伝説。
ドン・ボスコを愛し、チマッティ神父を慈父と慕った秋元神父さま、あなたから受け継いだ尊い宝を大切に、神さまの愛を人びとに運ぶことができるよう、どうぞお祈りください。
マルチノ 秋元 保夫
サレジオ会司祭。1913年東京・四谷生まれ。1944年司祭叙階。育英工業学校(現サレジオ高専)理事長を務め、1948年から50年以上にわたり司牧者、聴罪司祭として働く。2012年8月、98歳で帰天。