ありがとう!タシナリ神父 日本を愛した宣教師
今年2012年1月27日、宣教師クロドヴェオ・タシナリ神父が静かに私たちのもとを去った。出会った人々の心に温かな思い出と豊かな実りを残して。100歳の誕生日を目前にして天に召されたのは、奇しくも日本の地を初めて踏んだ同じ1月27日だった。
● 宣教師になって日本に行く決心
タシナリ神父は、1912年3月9日、イタリアのモデナで生まれた。深い信仰を母から学んだクロドヴェオ少年は、12歳でサレジオ会の中学校に入学、13歳の時に来校したチマッティ神父と決定的な出会いをする。チマッティ神父が生徒たちに語った日本での宣教の話に彼は強い関心を抱き、司祭への道を志すきっかけともなった。中学を終え転入したキエリの神学校の聖堂には日本26聖人殉教者の壁画があり、それを見つめながら宣教師となって日本へ行くことを心に決めていたという。
チマッティ神父に率いられた宣教団と共に、タシナリ神学生は故郷に別れを告げ、1930年1月27日、日本に上陸。以来、日本が大きく変貌する時代を、チマッティ神父の姿にならい、ドン・ボスコのように生き抜いた。
● 愛する人柄になったら何でもできる
戦争末期、外国人が当局の監視下にある中、宣教師や神学生たちは長野県の野尻湖に疎開していたが、神学院長だったタシナリ神父は東京と行き来する際、戦禍を逃れて上野駅周辺に集まる悲惨な境遇の子どもたちを目にした。終戦の年、チマッティ管区長はタシナリ神父の訴えを受け、この子どもたちの救済事業を始めることにした。こうして東京サレジオ学園が創立。「若きタシナリ神父が、上野駅あたりにいた行き場のない少年を、自分の自転車の後ろに乗せて、練馬の畑の中を子どもと話しながら自転車を走らせている」。溝部脩司教はタシナリ神父の忘れられない姿をこのように述懐している。
若くして宮崎の小神学校校長、修練院・神学院院長、東京サレジオ学園園長、管区長を務め、その後も日向学院校長、育英高専校長として、数多くの会員と生徒を育てた。タシナリ神父に育てられた会員は、貧しく厳しい生活の中で“父”に愛された家庭の楽しい思い出、「当意即妙、おおらかな精神性と信念」(金子賢之介神父)を忘れない。
キリシタン研究や、戦争に散った日本人サレジオ会員の伝記執筆にも表れるタシナリ神父の日本への愛、自分の功績にこだわらない姿は、福音を伝えるため「愛する人柄になったら何でもできる」(溝部司教)ことを私たちに教えてくれる。
● 価値あるもの、それは永遠のものだけ
葬儀ミサの直前、師の机の中から「望み」と題された1994年10月2日付の手紙が見つかった。この手紙は、彼を生かしていたすべてを物語っている。 「私は神のみ旨ならば、日本で生涯を終えたいと願っています。キリスト者として、サレジオ会員としての召命をくださり、また、チマッティ神父様の近くで過ごさせてくださった神に、私は言葉に尽くせない感謝でいっぱいです。たくさん頂いた恵みに十分に応えられなかったことを悔やみます。……聖マリア、今も臨終の時も、私たちのためにお祈りください。価値あるもの、それは永遠のものだけである。」
私たちは、この「もう一人のドン・ボスコ」を日本に与えてくださったことを、神に感謝してやまない。ドン・タシナリ、ありがとうございます! あなたの涙と苦労、あなたのユーモアと愛を、私たちは忘れません。私たちをどうぞ見守り、私たちのために祈ってください!
クロドヴェオ・タシナリ Tassinari Clodoveo sdb
サレジオ会司祭。1912年イタリア・モデナ生まれ。1930年来日。1936年司祭叙階。サレジオ神学院院長、東京サレジオ学園園長(創立)、サレジオ会日本管区長、日向学院中学校・高等学校校長、育英高専校長、杵築教会主任司祭などを歴任。2012年1月別府にて99歳で帰天。